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天武天皇
夫
7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。 |
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天智天皇
父
同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号で... |
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藤原京
飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な唐風都城でもある... |
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文武天皇
日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日)-慶雲4年6月15日(707年7月18日))。諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続... |
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草壁皇子
天武天皇と皇后鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪(あへ)皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王(後... |
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大海人皇子
大海人皇子の陰謀 超古代史壬申の乱 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます ... |
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大津皇子
大津皇子(おおつのみこ、663年(天智天皇2年)-686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は天武天皇皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天... |
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推古天皇
第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)-推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。日本初の女帝であると同時に、東ア... |
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額田王
額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみとも、生没年不詳)は斉明朝から持統朝に活躍した、日本の代表的な女流万葉歌人でありまた天武天皇の妃(一説に采女... |
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遠智娘
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遠智娘(おちのいらつめ、生没年不詳)は飛鳥時代の豪族蘇我氏の蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿のいとこ)の娘。またの名を造媛、美濃津子娘とも伝えられてい... |
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中大兄皇子
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『中大兄皇子伝〈下〉』 (黒岩 重吾) 詳細/レビュー クリップ( 0 人) リスト管理/履歴 中大兄皇子伝〈下〉 ⇒ Amazonで詳細を見る 装... |
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藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」... |
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元明天皇
日本(飛鳥時代-奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日)-和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)。... |
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蘇我倉山田石川麻呂
父
先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が... |
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聖武天皇
聖武天皇(しょうむてんのう、大宝元年(701年)-天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日)-天平勝宝元年7月2日(749年8月19... |
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柿本人麻呂
飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表... |
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蘇我入鹿
飛鳥時代の政治家。大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。 |
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大田皇女
飛鳥時代の皇族。天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。同母妹に&40469;野讚良皇女。同母弟に建皇子がいる。同母妹・&40469;野讚良皇女とと... |
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プロフィール
- 持統天皇とは
- 壬申の乱の前まで
- 壬申の乱
- 天武天皇の皇后
- 大津皇子の謀反
- 持統天皇の称制と即位
- 持統天皇の治世
- 文武天皇への譲位
- 譲位後の持統上皇
- 崩御
- 女帝持統の役割と野心
- 持統天皇による謀略説
- 血縁
- 子孫
- 陵
- 参考文献
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年)-大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制: 朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位: 持統天皇4年1月1日(690年2月14日)- 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、またはうののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原 ...
壬申の乱の前まで
| 父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘(おちのいらつめ)といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。 |
| 父母を同じくする姉に大田皇女がいた。 |
| 大化5年(649年)、ぶ告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。 |
| 石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。 |
| 『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。 |
| 美濃津子娘と造媛が同一人物なら、鸕野讃良は幼くして母を失ったことになる直木孝次郎『持統天皇』51-53頁。 |
| 新編古典文学全集『日本書紀』第5巻178頁注2は可能性を指摘しつつ「同一人か否かは問題がある」とまとめる。 |
| 斉明天皇3年(657年)、13才のときに、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。 |
| 中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。 |
| 斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った『日本書紀』にその航海中に大田皇女が大来皇女を出産したことが記されているので、大田と同じ立場の讚良も同行したと推測される。 |
| 天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、讚良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。 |
壬申の乱
| 天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠せいしたとき、草壁皇子を連れて従った。 |
| 『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる直木孝次郎『持統天皇』122-123頁。 |
| 北山茂夫は、皇族出身の妻のうちただ一人、と限定する(「持統天皇論」132頁)。 |
| 大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。 |
| 皇女は我が子草壁皇子、母を異にする大海人の子忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃に向けた脱出の強行軍を行った。 |
| 疲労のため大海人一行と別れて伊勢にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。 |
| 壬申の乱のときに土地の豪族尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。 |
| この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。 |
天武天皇の皇后
| 大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。 |
| 『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后はずっと天皇を助け、そばにいて政事について助言した。 |
| 679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。 |
| 6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、芝基皇子で、川島と芝基(志貴)が天智の子、残る4人は天武の子である。 |
| 天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。 |
| 続いて皇后も皇子らを抱擁した。 |
| 皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。 |
| 681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編さんを始め、当時19才の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。 |
| 当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。 |
| 皇后の強い要望があったと推測される。 |
| 685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。 |
| 686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。 |
大津皇子の謀反
| 大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。 |
| 立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。 |
| 草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない直木孝次郎『持統天皇』160-161頁。 |
| 2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。 |
| 草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。 |
| しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。 |
| 川島皇子の密告という。 |
| 具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。 |
| 皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。 |
| そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。 |
| 謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い北山茂夫「持統天皇論」153頁。 |
| いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の意志を見る点は共通している。 |
持統天皇の称制と即位
| 天武天皇は、2年3か月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。 |
| このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる北山茂夫『持統天皇論』155頁、159-160頁。 |
| 草壁皇子の子、当時7才の軽皇子(後の文武天皇)に望みを託すとしても、軽皇子はあまりに幼く、当面は皇太子に立てることさえはばかられた。 |
| かくて鸕野讃良は自ら即位することにした。 |
| その即位の前年に、前代から編さん事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。 |
| 持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。 |
| 以前の儀式が詳しくないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げるというのは初見である。 |
| 前代にみられた群臣の協議・推戴がない。 |
| 全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが北山茂夫『持統天皇論』165頁。 |
| 直木孝次郎『持統天皇』206頁。 |
| 、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い上田正昭『古代日本の女帝』153-155頁。 |
| 熊谷公男『大王から天皇へ』343-344頁。 |
| 即位の後、天皇は大規模な人事を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。 |
| ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった北山茂夫『持統天皇論』184-185頁。 |
| これには新制度が定めた官職を補充するために人材の数が必要になったという事情もあろうが、皇位継承のライバルとなる皇族の登用を持統天皇が望まなかったという可能性も指摘される。 |
| 直木孝次郎『持統天皇』213-215頁。 |
持統天皇の治世
| 持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』30頁、37頁。 |
| 新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』33頁。 |
| 未着手とする説では、その理由が民の労役負担を避けるためだったと説かれるので、後述の伊勢行幸ともども、天武の治世と微妙に異なる志向がある直木孝次郎『持統天皇』217-219頁。 |
| 墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編さん事業を引き継ぐものであった。 |
| 687年7月には、685年より前の負債の利息を免除した。 |
| 天武天皇がカリスマ的権威を一身に体現し、個々の皇族・臣下の懐柔や支持を必要としなかったのとは異なっている。 |
| 持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた北山茂夫『持統天皇論』177-182頁。 |
| 人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。 |
| 夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。 |
| 伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂のかん言を押し切った。 |
| 持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。 |
| 外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。 |
| 日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。 |
| その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。 |
文武天皇への譲位
| 高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される北山茂夫『持統天皇論』210-212頁。 |
| 『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった『懐風藻』葛野王の伝。 |
| 日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。 |
譲位後の持統上皇
| 文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる北山茂夫『持統天皇論』230-231頁注1。 |
| しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる直木孝次郎『持統天皇』257-269頁。 |
崩御
| 陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。 |
| 持統天皇の遺骨は銀の骨つぼに収められていた。 |
女帝持統の役割と野心
| 『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり持統即位前紀。 |
| 、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。 |
| 持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており西郷信友は、壬申の乱の後に詠んだとの注釈によって天武天皇を指して詠まれたと一般に解される大伴御行の2首を、持統天皇による藤原京造営にあてる。 |
持統天皇による謀略説
| 万葉学者の吉永登は、石川郎女と寝たことを津守通に占いで看破されて大津皇子が詠んだ歌について、津守は占いではなく密偵によって知ったのではないかという吉永登『万葉集』。 |
陵
| 陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。 |
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1971年
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発行、1973年に『日本の女帝』と改名 |
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1979年
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講談社から発行、文庫版で訂正あり |
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