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つながりの強いひと
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斯波義敏
室町時代後期の守護大名。斯波氏(武衛家)10代当主。父は斯波持種、義父は斯波義健。 |
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一色義直
親
室町時代から戦国時代の守護大名。丹後・伊勢半国守護、尾張知多郡・三河渥美郡分郡守護。一色義貫の嫡男。弟に義遠。子に義春、義秀、斯波義寛室。養子に政... |
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斯波義達
斯波義達(しばよしたつ、生年不詳-大永元年(1521年)11月?)は戦国時代の守護大名・戦国大名。斯波氏(武衛家)13代当主。父は斯波義寛、母は一色義直の娘... |
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村上義清
戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信... |
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足利義澄
室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日)-永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍足利義政の異母兄である堀越公方足利政知。はじ... |
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今川氏親
今川氏親(いまがわうじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。足利氏の一門・吉良氏の庶流である駿河今川家7代当主。駿河守護。父は今川義忠。... |
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斯波義廉
室町時代中後期の守護大名。室町幕府管領。斯波氏(武衛家)11代当主。足利氏の一門渋川氏に生まれ、後に同じく足利一門の斯波氏を相続した。父は堀越公方足... |
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朝倉孝景
『留学』朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢 なんと自転車屋さんを発見!!5秒ほど考えて今回は豪州に留学をしている人が日本で働く場合についてのポイントを... |
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小笠原長棟
小笠原長棟(おがさわらながむね)は戦国時代の武将。信濃の大名小笠原氏(府中小笠原氏)の当主。小笠原貞朝の次男。 |
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足利義政
室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年-1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟... |
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細川政元
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名、管領。足利氏の庶流・細川氏当主。幕臣ながら将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ば... |
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織田敏定
戦国時代の武将。父は織田久長。尾張下四郡の守護代。室町幕府の管領斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)の当主。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の... |
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斯波義銀
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。本姓は源氏。斯波氏(武衛家)15代(最後)当主。尾張守護・斯波義統の嫡男。弟に毛利秀頼(異説有り)、津川義冬... |
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斯波義統
斯波義統(しばよしむね、永正10年(1513年)-天文23年7月12日(1554年8月10日))は戦国時代の守護大名。斯波氏(武衛家)14代当主。父は尾張・遠江守護斯波... |
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斯波義淳
室町時代中期の武将・守護大名。足利一族の名門・斯波氏(武衛家)7代当主。室町幕府管領。管領斯波義重の嫡男で、室町幕府前期の有力者斯波義将の孫に当たる。 |
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細川勝元
室町時代の武将・守護大名。管領、土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。足利氏の支流で三管領の1つである細川氏嫡流・京兆家の当主。細川持之の子、政元の父。... |
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村上顕国
上杉謙信の家臣となり再び武田と戦い、永禄4年(1561年)第4次川中島の戦いにおいて、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。しかし、遂に本領回復は果た... |
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渋川義鏡
室町時代後期の武将である。本姓は源氏で足利氏の一門渋川氏の出身。父は渋川義俊(または渋川満頼、その場合義俊とは兄弟になる)。子に斯波義廉、養子に渋... |
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六角高頼
南近江の戦国大名。六角久頼の子(異説では六角政頼?の子)。妻は足利成氏の娘。足利義高(後の義澄)に一字を賜う。 |
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斯波義重
室町時代前期の守護大名。室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護。斯波氏(武衛家)6代当主。管領として長年に渡って室町幕府を支えた斯波義将の嫡... |
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プロフィール
- 斯波義寛とは
- 尾張入国前
- 尾張入国後
- 官歴
- 参考文献
- 関連項目
斯波義寛(しばよしひろ/-よしとお)は室町時代後期から戦国時代初期の守護大名・戦国大名。斯波氏(武衛家)12代当主。 斯波義敏の嫡男で、母は家女房。幼名は松王丸、初名は義良(よしすけ/よしなが)。
尾張入国前
| 康正3年(1457年)、越前・尾張・遠江守護である斯波義敏の嫡男として誕生する。 |
| 長禄3年(1459年)8月、父が8代将軍足利義政の怒りに触れ(長禄合戦を参照)、越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を奪われ大内教弘の許へ隠退すると、越前守護代甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳の松王丸(後の義寛)が斯波氏(武衛家)家督と3ヶ国守護職を継ぐ。 |
| ところが2年後の寛正2年(1461年)8月2日、義政から当主の座を廃され、相国寺の季瓊真蘂に稚児として預けられる。 |
| 次の当主には遠縁にあたる渋川義鏡の子義廉が据えられた。 |
| この廃立には有力家臣朝倉孝景の裏工作があったと言われているが、孝景は義敏の失脚後に遠江で一揆が発生した為、長禄4年(1460年)に甲斐敏光と共に遠江に出兵、関東に移り、寛正2年10月の義廉と義政の対面に同席するまで京都に不在だった為に否定的な説もある。 |
| また、関東の幕府出先機関の堀越公方足利政知の軍事力増強の狙いもあったとされる。 |
| 文正元年(1466年)7月、父が義政から赦免され武衛家当主として復権すると、松王丸もそれに伴い還俗し武衛家世嗣に復する。 |
| 翌年から勃発した応仁の乱では一貫して東軍に属し、祖父の斯波持種、父と共に越前へ下向、同国の西軍・義廉方を攻めている。 |
| 将軍義政の陣営である東軍に属したことによって応仁2年(1468年)には早くも武衛家家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された(但し、西軍内ではなおも義廉が武衛家家督と3ヶ国守護職に留まる)。 |
| 文明4年(1472年)12月に元服し、『義良』と名乗り従五位下治部大輔に任じられる。 |
| 文明7年(1475年)、9代将軍足利義尚に謁見し、遠江守護代となった甲斐敏光と共に遠江に下向して同国侵攻を続けていた駿河守護今川義忠の軍勢と対陣する。 |
| 翌年塩買坂で義忠を敗死させ遠江で今川氏に対し優位に立つと、今度は朝倉孝景が平定したばかりの越前に目を向ける。 |
| 文明11年(1479年)閏9月4日、叔父義孝、甲斐敏光、二宮氏らを引き連れて京都から越前に向けて進発、文明13年(1481年)まで越前の諸所で合戦を繰り広げる。 |
| しかし、同年9月15日の合戦で孝景の嫡男氏景ら朝倉方に完敗し、加賀に没落、越前復旧は失敗する。 |
| この頃には尾張国内において義廉党が駆逐されたため義良は尾張への下向を決意する。 |
| 文明15年(1483年)3月に尾張清洲城に入城しここを本拠地と定める。 |
| 文明17年(1485年)、諱を『義寛』と改め従四位下左兵衛佐に任じられると、同年出家した父の跡を継いで名実共に武衛家当主となった。 |
尾張入国後
| 尾張を本拠とした義寛だが、以後も越前回復には並々ならぬ執念を燃やすこととなる。 |
| 長享元年(1487年)、足利義尚による近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると、義寛は尾張守護代織田敏定、織田寛広ら織田氏一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣する。 |
| この際、越前を実効支配する朝倉貞景が幕府軍へ参陣すると、かつての家臣と同陣することに大きな屈辱を感じた義寛は、将軍義尚に対して朝倉氏の越前押領と、自身の越前回復を訴えた(長享の訴訟)。 |
| この争論では斯波氏・朝倉氏ともに越前支配の正統性を主張して互いに譲らず、幕府としても討伐目標を前にしながらの内輪揉めは望まなかったため、義寛に色の良い答えが出ぬまま、この争論は立ち消えとなった。 |
| 延徳3年(1491年)、義尚の後を継いだ10代将軍足利義材(義稙)によって再び六角征伐が行われると、義寛はまたも大軍を率いて参陣。 |
| この時の斯波軍の装いは「武衛衆の壮麗、山名衆に勝る。 |
| 同日に語るべからず」と賞賛されるほど華麗な軍勢であったという。 |
| 参陣後、義寛は義材に重ねて越前回復を訴える(延徳の訴訟)。 |
| 今回は義材の越前進発が噂になるなど、義寛にとって有利な方向へ事は進んだが、結局幕府は朝倉氏の精鋭1万といわれる軍事力に二の足を踏み越前回復はならなかった。 |
| 明応2年(1493年)の義材の河内の畠山基家攻めにも義寛は従軍するが、従軍中に管領細川政元によるクーデター(明応の政変)に遭い、義材との親密さが災いして幕府内で孤立することとなる。 |
| 翌年からは細川政元と提携している今川氏親が遠江に侵攻を開始、義寛はこれに対処しようとするが、明応4年(1494年)に隣国美濃で船田合戦が勃発、尾張国内がこれに巻き込まれ、遠江出陣は不可能な状態となる。 |
| 尾張国内の政情が安定化した明応9年(1500年)頃から義寛は戦略を変更、義材派から11代将軍足利義高(義澄)派に切り替え、細川政元の支持を獲得。 |
| 信濃守護小笠原貞朝、関東管領上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏親を東西から挟撃しようと目論む。 |
| 文亀元年(1501年)、義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し攻勢をかける。 |
| しかしまもなく史料上からその名を消し、その後の動向は不明。 |
| 一説によると永正11年(1514年)に死去したとされる。 |
| 次の当主は子の義達が継いだ。 |
官歴
| 1459年(長禄3年)8月、斯波氏家督継承及び越前・尾張・遠江守護補任。 |
| 1461年(寛正2年)8月、家督及び守護職剥奪。 |
| 1468年(応仁2年)7月、越前・尾張・遠江守護職補任。 |
| 1472年(文明4年)12月、元服。 |
| 従五位下治部大輔。 |
| 1485年(文明17年)4月、従四位下左兵衛佐。 |
参考文献
| 小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1980年)。 |
| 今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典〔下〕』(新人物往来社、1988年)。 |
| 松原信之『越前 朝倉一族』(新人物往来社、1996年)。 |
| 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)。 |
| 『歴史と旅 増刊「守護大名と戦国大名」』(秋田書店、1997年)。 |
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1457年
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越前・尾張・遠江守護である斯波義敏の嫡男と... |
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1460年
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甲斐敏光と共に遠江に出兵、関東に移り、寛正... |
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