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つながりの強いひと
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呼廚泉
中国後漢代から三国時代にかけての南匈奴の単于。羌渠の子、於夫羅の弟。 |
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袁紹
中国の後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県の出身。高祖父は袁安。曽祖父は袁京。祖父は袁湯。父は袁成又は袁逢。叔父に袁隗。... |
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魏諷
鍾繇に推挙されて曹操に仕え、西曹掾に任命された。官吏としても名声を得たため、多くの高官や名士が魏諷と交際したという。しかし、その一方で少数ながら魏... |
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羌渠
中国後漢時代の南匈奴の単于で、於扶羅、呼廚泉の父。 |
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賈ク
後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は文和(ぶんわ)。董卓、李&x5095;、段&x7168;、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏二代にわたり重臣として... |
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劉豹
中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于於夫羅の子、前趙の劉淵の父。南匈奴で叛乱が起こったことで於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で死ぬ... |
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張飛
中国後漢末期から三国時代の武将。字は益徳。涿郡(現在の河北省涿県)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯。諡は桓侯。子に張苞・張紹・敬哀皇后... |
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劉淵
五胡十六国時代の前趙の創建者。ただし、劉淵自身は国号を「漢」としている。 |
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馬騰
後漢末期の軍人。字は寿成。祖先は後漢初期の名将馬援、父は馬平。蜀(蜀漢)の将軍馬超の父に当たる。 |
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成宜
三国志に登場する武将。後漢末期の人物。魏書の武帝紀、蜀書の馬超伝などに登場する。馬超、韓遂達と同盟を結び反乱を起こす。正史の本文中において、馬超、... |
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ホウ徳
中国後漢末期の武将。字は令明(れいめい)。南安郡狟道県の人。従兄に龐柔、子に龐会。龐悳とも表記される。『三国志』魏志に伝がある。関中の軍閥の馬騰・... |
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袁術
後漢末期の武将・政治家。後漢の司空である袁逢の子。太僕である袁基の同母弟。袁紹の従弟又は異母弟。後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが... |
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張楊
中国の後漢時代末期の武将、政治家。字は雅叔。并州雲中郡(現在のモンゴル自治区にあるフフホト)の人。張揚と記される例もある。『三国志』魏志に伝がある。 |
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梁興
後漢末の武将。『三国志』魏志「夏侯淵伝」・「徐晃伝」・「張&37059;伝」・「鄭渾伝」・蜀志「馬超伝」に登場する。馬超・韓遂の反乱に呼応した勢力(関中十... |
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麹義
中国の後漢時代末期の武将。涼州西平郡の人と見られる。 |
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顔良
中国の後漢時代末期の武将。顔氏家訓によると顔之推は顔良を同族と言っているので、それを信じれば顔良は徐州琅邪国臨沂県の人ということになる。 |
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田豊
中国の後漢時代末期の政治家、武将。字は元皓。冀州鉅鹿郡の人とも勃海郡の人ともいう。 |
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李儒
中国の後漢末の人物。董卓が入朝した頃に官界にあり、弘農王(少帝)劉弁の郎中令に就いており、董卓に廃された弘農王に毒薬を飲ませて殺害したと記されてい... |
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張遼
中国後漢末期、三国時代の武将。字は文遠(ぶんえん)。雁門郡馬邑県(現/山西省朔州市朔城区)の出身。子は張虎、孫に張統がおり、兄に張汎がいる。『三国志... |
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姜維
中国三国時代の魏の人物、後に蜀漢の武将。字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。父は姜冏。 |
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プロフィール
於夫羅(おふら、拼音:Wūfúluó,和平元年(150年)-興平2年(195年))は、中国後漢時代の南匈奴の単于。 羌渠の子、 劉豹の父、 呼廚泉の兄。前趙の 劉淵の祖父。諡は持至尸逐侯単于。『後漢書』では於扶羅と表記される。
生涯
| 光和2年(179年)、呼徴単于が使匈奴中郎将の張脩に殺され、羌渠が単于に立てられると、於扶羅は右賢王となる。 |
| 中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、単于羌渠は右賢王於扶羅の率いる援兵を派遣し、漢朝を援助した。 |
| 中平5年(188年)3月、単于羌渠の度重なる徴兵に耐えかねた右部の落は休著各胡白馬銅ら10万余人とともに叛き、単于羌渠を殺した。 |
| 羌渠のあとを継いだのは子の右賢王於扶羅であったが、羌渠を殺した国人たちはこれに背いて、別に須卜骨都侯を共立して単于とした。 |
| そこで於扶羅は自ら洛陽の宮闕(宮城の門)にまで来てこのことを訴えた。 |
| しかし、ちょうど霊帝崩御の混乱時期であり、その願いはかなわず、単于於扶羅は白波賊とともに河内諸郡を略奪するが、そこの自警団に阻まれこれも成果なく、本国に帰ろうとしたが受け入れてもらえず、河東郡にとどまった。 |
| 中平6年(189年)、南匈奴本国では、須卜骨都侯単于が即位1年で死に、南単于庭の単于が空位となったので、老王が国事を執り行った。 |
| 初平元年(190年)、曹操らの反董卓連合軍の結成の際には張楊とともに袁紹に属し、漳水に駐屯する。 |
| 後(191年7月以降)、張楊を人質にとって袁紹に対し反逆するが、袁紹軍の麹義に追撃され、黎陽に逃れた後に度遼将軍の耿祉の軍勢を奪って勢力を盛り返した。 |
| 初平3年(192年)、黒山賊を討った曹操と内黄で戦って大敗し、翌年(193年)春には袁術が陳留に進出した際に、黒山賊とともに袁術を支援したが、袁術が曹操に敗れたためか、最終的には於扶羅は曹操に帰順したとみられる。 |
| 興平2年(195年)に没し、代わって弟の呼廚泉が単于となった。 |
| なお、小説『三国志演義』には登場しない。 |
参考資料
| 『三国志』(武帝紀、二公孫陶四張伝)。 |
| 『後漢書』(南匈奴列伝)。 |
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