施肇基 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 施肇基 Who's Who in China 3rd ed. (1925) プロフィール 出生: 1877年 4月10日 ( 清 光緒 3年2月27日) 死去: 1958年 1月3日 アメリカ合衆国 ワシントンD.C. 出身地: 清国 江蘇省 蘇州府 震沢県 職業: 政治家・外交官 各種表記 繁体字 : 施肇基 簡体字 : 施肇基 ピン音 : Shī Zhàojī 和名表記: し じょうき 発音転記: シー ジャオジー ラテン字 : Shih Chao-chi 英語名 : Alfred Sao-ke Sze 表示 施 肇基 (し じょうき または し ちょうき)は、 清末 、 中華民国 の外交官・政治家。 北 ... もっと見る
施肇基 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 施肇基 Who's Who in China 3rd ed. (1925) プロフィール 出生: 1877年 4月10日 ( 清 光緒 3年2月27日) 死去: 1958年 1月3日 アメリカ合衆国 ワシントンD.C. 出身地: 清国 江蘇省 蘇州府 震沢県 職業: 政治家・外交官 各種表記 繁体字 : 施肇基 簡体字 : 施肇基 ピン音 : Shī Zhàojī 和名表記: し じょうき 発音転記: シー ジャオジー ラテン字 : Shih Chao-chi 英語名 : Alfred Sao-ke Sze 表示 施 肇基 (し じょうき または し ちょうき)は、 清末 、 中華民国 の外交官・政治家。 北京政府 、 国民政府 において駐米公使、駐英公使等をつとめた中華民国を代表する外交官の1人である。 字 は 植之 。祖籍は 浙江省 杭州府 銭塘県 。なお、英語名の Alfred Sao-ke Sze としても知られる。 目次 1 事跡 1.1 清末の活動 1.2 民初外交での活躍 1.3 国民政府時代の活動 2 参考文献 [ 編集 ] 事跡 [ 編集 ] 清末の活動 父は 挙人 で、絹の輸出により富裕な家庭であった。施肇基は、 1886年 ( 光緒 12年)に 南京 の江寧府同文館で英文を学ぶ。翌年から 上海 の聖ヨハネ学院(後の聖ヨハネ大学)で3年間学んだ。 1890年 (光緒26年)、国文学院に入学している。 1893年 (光緒19年)、駐米公使 楊儒 に随従して渡米し、翻訳生をつとめた。 1897年 (光緒23年)、 コーネル大学 で研究に従事している。 1899年 (光緒25年)、楊儒が駐露公使に転じたことに伴い、施もこれに随従している。その後、再びコーネル大学に戻り、文学修士号を取得した。 1902年 (光緒28年)に帰国して、施肇基は 湖広総督 衙門洋務文案兼留美(米)学生監督となる。後に幣制局督弁となった。 1905年 (光緒31年)、 端方 ら五大臣が憲政考察のために外国視察に赴いた際に、施はこれに随従して一等参賛官に任じられた。なお、この直前に、 唐紹儀 の姪である唐玉華と結婚している。帰国後、施は法政科最優等の 進士 となった。 1907年 (光緒33年)、京奉鉄路局会弁に任じられる。翌年には、 吉林 西北路兵備道兼濱江関監督、吉林林業局監督に異動した。 1909年 ( 宣統 元年)、吉林交渉使に昇進し、対外事務を主管した。なお同年10月26日に、 ハルビン で 伊藤博文 暗殺事件が発生したため、施がその事後処理を担当している。 翌年、 北京 に戻って外務部右丞に任じられ、 1911年 (宣統3年)、外務部左丞に異動した。同年10月、アメリカ等公使に任命されて出国準備を進めていたが、 辛亥革命 のために中止した。 [ 編集 ] 民初外交での活躍 施肇基別影(1) 中華民国 成立後の 1912年 ( 民国 元年)3月、唐紹儀が民国最初の内閣を組織し、その翌月に施肇基は交通総長に任命された。しかし、 袁世凱 の干渉に耐えかねた唐は6月に辞職に追い込まれ、施もまた唐に従った。 1914年 (民国3年)6月、駐英公使に任命され、以後7年間同職にあった。 1919年 (民国8年)の ヴェルサイユ会議 にも代表団として出席する。山東問題などへの反発から、施も ヴェルサイユ条約 調印拒否に賛成している。 1921年 (民国10年)2月、施肇基は、 顧維鈞 と役職を入れ替わる形で駐米公使に異動する。同年から開始された ワシントン会議 にも、施は全権代表の1人として参加した。このときの施は、顧らとともに不平等条約撤廃、租借地返還、関税自主権回復などを目指し、列強を相手に懸命に交渉している。しかし、列強も譲らず、これらの実現はならなかった。 1920年 (民国11年)2月、 北京政府 の命もあって、施が中国を代表して 九カ国条約 に調印した。 帰国後の 1923年 (民国12年)1月、 張紹曽 内閣で外交総長に任命される。ところが翌月、参議院議員を接待するための宴席を設けようとしなかった、という理由により、参議院が施の任命を拒否し、外交総長から罷免に追いやられてしまった。3月、駐米公使に再任される。 1926年 (民国15年)5月には 顔恵慶 内閣で外交総長に任命された。しかし、短期間で顔内閣が崩壊したため、やはりすぐに駐米公使に復帰した。 [ 編集 ] 国民政府時代の活動 施肇基別影(2) 国民政府 の 北伐 に対しては、施肇基は支持の態度をとり、外国に対して中国へ介入しないよう求めた。 1928年 (民国17年)7月、国民政府により施の駐米公使の地位が確認され、同年11月、駐英全権公使に異動した。 1930年 (民国19年)、 国際連盟 中国全権代表兼理事会理事をつとめる。 1931年 (民国20年)年9月、 満州事変 が勃発すると、施肇基は、日本の軍事行動は国際的公理に反するとして、国際連盟を舞台にこれを激しく批判・非難した。しかし、 蒋介石 は不拡大方針(不抵抗方針)を指示し、11月25日、やむなく施はその訓令に基づいて 錦州 を中立区とする提案を行うに至る。これは国内世論の激しい反発に遭ったため、12月4日に撤回した。結局、世論との板ばさみに悩んだ施は翌日に辞意を示し、翌年1月、顔恵慶がその後任となった。 1933年 (民国22年)、施肇基は駐米公使に返り咲く。 1935年 (民国24年)6月、中米双方が使節の昇格を行い、施が初代駐米大使となった。翌年8月、大使を辞任し、帰国すると上海に寓居した。 日中戦争 (抗日戦争)が勃発すると、救護活動に従事し、諸外国に中国支援を求める活動を行った。 1941年 (民国30年)にはアメリカに向かい、やはり中国のための支援活動を継続している。 1945年 (民国34年)、サンフランシスコで開催された 国際連合 憲章制定会議において、施肇基は中国代表団の顧問をつとめた。 1948年 (民国37年)、 国際復興開発銀行 顧問委員会委員兼顧問に任じられている。 1958年 1月3日、 ワシントンD.C. で病没。享年82(満80歳)。 [ 編集 ] 参考文献 ウィキメディア・コモンズには、 施肇基 に関連するカテゴリがあります。 羅幼娟「施肇基」 中国社会科学院 近代史研究所 『民国人物伝 第10巻』 中華書局 、2000年。 ISBN 7-1-X 。 徐友春主編 『民国人物大辞典 増訂版』 河北人民出版社、2007年。 ISBN 978-7-2-1 。 劉寿林ほか編 『民国職官年表』 中華書局、1995年。 ISBN 7-1-1 。 中華民国 ( 北京政府 ) 先代: 唐紹儀 交通総長 1912年 4月 - 6月 次代: 劉冠雄 先代: 王正廷 外交総長(署理) 1923年 1月 - 2月 次代: 黄郛 先代: 胡惟徳 外交総長 1926年 5月 - 6月 次代: 蔡廷幹 中華民国 ( 国民政府 ) 先代: 王正廷 外交部長 1931年 10月 - 11月 次代: 顧維鈞 「 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%82%87%E5%9F%BA 」より作成 カテゴリ : 中華民国の人物 し | 中華民国の外務大臣 | 中華民国の外交官 | 北京政府の政治家 | 国民政府の政治家 | 江蘇省出身の人物 | 1877年生 | 1958年没 戻る






















