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奈解尼師今
新羅の第10代の王(在位:196年-230年)であり、先代の伐休尼師今の第2子伊買の子。姓は昔。母は内礼夫人、王妃は第11代の助賁尼師今の妹。伐休尼師今が196年4... |
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助賁尼師今
新羅の第11代の王(在位:230年-247年)であり、姓は昔。父は第9代の伐休尼師今の太子の骨正葛文王、母は金仇道葛文王(後の味鄒尼師今の父)の娘の玉帽夫人。... |
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訖解尼師今
新羅の第16代の王(在位:310年-356年)であり、姓は昔氏。第10代奈解尼師今の孫であり、父は昔于老、母は第11代助賁尼師今の娘の命元夫人。先代の基臨尼師今... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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沾解尼師今
新羅の第12代の王(在位:247年-261年)であり、姓は昔。先代の助賁尼師今の同母弟であり、父は第9代の伐休尼師今の太子の骨正葛文王、母は金仇道葛文王(後の... |
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伐休尼師今
新羅の第9代の王(在位:184年-196年)であり、姓は昔。父は第4代の脱解尼師今の子の仇鄒角干、母は金氏の只珍内礼夫人。184年3月に先代の阿達羅尼師今が死去... |
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葛文王
新羅における王族の称号のひとつ。『三国史記』からは、王位にはつけなかった王の父や王の舅などに尊称として与えられたものと考えられている。発生の経緯や... |
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味鄒尼師今
新羅の第13代の王(在位:262年-284年)であり、姓は金氏。金閼智の7世孫であり、父は葛文王(金)仇道、母は葛文王(朴)伊柒の娘。王妃は第11代助賁尼師今の... |
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にしきん
はは (3) 08/09 m9(^д^) (5) 08/06 参加サークル もっと見る 最近のつぶやき バンってしてないだろ! 更新日時 :2010/08/20 16:53 伝言板 もっと見る 違... |
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江原道
Home About 江原道 道知事紹介 プロフィール content 歴代道知事 Choi Moon-soon 氏名 崔文洵 在任期間 2011.4.28~第36代 江原道知事 道政ロ号 道政方針 ... |
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金富軾
高麗の官僚・儒学者であり、慶州金氏という新羅王室に連なる門閥貴族である。朝鮮に現存する最古の歴史書である『三国史記』を編纂し、後に楽浪郡開国侯を賜... |
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異斯夫
異斯夫(いしふ、生没年不詳)は6世紀の新羅の将軍であり、王族の一員。姓は金、別名(諱)を苔宗ともいう。日本書紀では伊叱夫礼智干岐,あるいは伊叱夫礼知... |
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井上秀雄
愛知県生まれの歴史学者。東北大学、樟蔭女子短期大学名誉教授。専門は古代朝鮮史、日朝関係史。 |
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昔々亭桃太郎
昔々亭桃太郎(せきせきてい ももたろう)は落語の名跡。当代は2代目(落語芸術協会のHP上では3代目)。昔々亭桃太郎(山下喜久雄)は自称「二十四代目」と... |
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基臨尼師今
新羅の第15代の王(在位:298年-310年)であり、姓は昔氏。第11代の助賁尼師今の孫であり、父は(昔)乞淑用飡、母の名は伝わらない。『三国史記』新羅本紀・... |
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婆娑尼師今
新羅の第5代の王(在位:80年-112年)であり、第3代儒理尼師今の第二子。姓は朴。『三国史記』新羅本紀・婆娑尼師今紀の分注には儒理尼師今の弟・奈老の子とも... |
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東川王
高句麗の第11代の王(在位:227年-248年)。姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘。東襄王ともいう。先代の山上王の子であり、213年に太子に立てられ、227年5月に先... |
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神功皇后
仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひ... |
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奈勿尼師今
新羅の第17代の王(在位:356年-402年)であり、姓は金氏。『三国史記』に拠れば、分注に別名として那密(尼師今)を伝え、第13代味鄒尼師今の甥(父は仇道葛... |
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プロフィール
昔于老(せきうろう、生年不詳-253年?)は、新羅の軍人・高級官僚。第10代の王 奈解尼師今の長子であり、弟に昔利音がいる。あるいは角干(新羅の官位1等の伊伐飡の別名)水老の子ともいう。230年に 奈解尼師今が死去したときに于老は太子の位にあったが王位を継がず、 奈解尼師今にとっては従兄にあたる 助賁尼師今が王位を継承した。後に 助賁尼師今の王系が途絶えたときに、于老の子が16代王の 訖解尼師今となった。数々の軍功とともに悲劇的な最期を迎えたことが、『三国史記』 ...
生涯
| 奈解尼師今の14年(209年)に、浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶を指すと考えられる)が新羅に対して救援を求めてきた。 |
| このとき太子の位にあった昔于老が、弟である伊伐飡の昔利音とともに加羅の救援に駆けつけ、浦上八国の将軍を討って捕虜6千を得た。 |
| 助賁尼師今の2年(231年)7月に伊飡(6等)の位で大将軍となり、甘文国(慶尚北道金泉市)の討伐を行う。 |
| 233年5月及び7月には新羅は倭人の侵攻を受けたが、7月の侵攻の際には于老は沙道(慶尚北道浦項市)で迎え撃ち、兵船を焼き払って倭人を壊滅させる功があった。 |
| これらの功績があって、244年1月には舒弗邯(官位1等の伊伐飡の別名)に引き上げられ、軍事の統括を委任された。 |
| 翌245年10月には高句麗の侵攻を受けて出撃したが、勝つことができず馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却した。 |
| このとき寒さが厳しかったために、兵卒を労わるために自ら薪を燃やして暖をとらせ、人々からは慕われた。 |
| 沾解尼師今(在位:247年-261年)の時代に新羅の支配下にあった沙梁伐国(慶尚北道尚州市)が反乱を起こして百済に帰順したときにも、于老が出撃して沙梁伐国を討滅したという沙梁伐国の反乱と昔于老による討滅については、新羅本紀には対応する記事は見られず、昔于老伝のみの記事となっている。 |
| のちに倭国の使者葛那古を接待したときに、戯れに「倭の王を塩奴(潮汲み人夫)にして、王妃を炊事婦にしよう」と言ってしまったために、倭王は大いに怒り、将軍の于道朱君を派遣して新羅に攻めてきた。 |
| 于老は倭軍の陣に赴いて失言をわびたが、倭人は許さず、于老は捕らえられて焼き殺されてしまった昔于老の殺害については、新羅本紀では沾解尼師今3年(249年)4月のこととし、昔于老伝では沾解尼師今の7年(253年)のこととする。 |
| 于老の死後、味鄒尼師今の時代になって倭国の大臣が新羅に訪れたとき、于老の妻が味鄒尼師今に願い出て、私的に倭国の大臣を饗応した。 |
| 大臣が泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、怨みを晴らした新羅本紀・味鄒尼師今紀には対応する記事は見られない。 |
| 『日本書紀』巻9・神功皇后摂政前紀の後部の長大な分注記事が、昔于老の妻の倭人への報復記事と関連していると言われる。 |
| (→井上訳注1980p.64)。 |
| このことが原因で倭人は新羅の首都金城(慶州市)を攻撃してきたが、勝てずして引き上げたという。 |
| 『三国史記』の編者の金富軾は昔于老を評して「戦えば必ず勝ち、敗れることが無かった策謀の士」としながらも、「ただ一言の過ち(失言で自らの命を失い新羅と倭国との開戦を招いたことで、功績が記されなくなった」としている。 |
説話の解釈
| 3世紀の昔于老の功績として記されているが、三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考證』によれば、新羅が浦上八国を破ったという記事は真興王(在位:540年-576年)時代のことであるという。 |
| また、新羅と百済との伽耶諸国を巡る交戦は6世紀になってから始まることであり、沙梁伐国が新羅に服属するのは法興王時代に沙伐州の置かれた525年のことと見られている。 |
参考文献
| 『三国史記』第1巻金富軾撰井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980ISBN4-582-80372-5。 |
| 『三国史記』第4巻金富軾撰井上秀雄・鄭早苗訳注、平凡社〈東洋文庫492〉、1988ISBN4-582-80492-6。 |
| 井上秀雄『古代朝鮮』<講談社学術文庫>、講談社、2004 ISBN4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972)。 |
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