| 1982年には日産・シルビアRS(FJ20型エンジン搭載)のテレビCMに出演。 |
| 1980年代後半、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権で日産ワークスに在籍したまま、全日本F2/F3000選手権ではホンダからワークスエンジンの供給を受けていた時期があり、そのため当時はグループC、グループAのレースのときは日産車で、F2/F3000のときは中立の意味でメルセデスベンツでサーキット入りしていた。 |
| ちなみにホンダからF2エンジンの供給を受けることが内定した1984年暮れ、星野は日産ワークスからの離脱を覚悟し当時国内メーカー2社と同時に契約することはタブーとみられていた。 |
| また、日産ワークス所属のドライバーは国内他社のマシン・エンジンでのレース参戦も禁じられていた(BMWなど外国メーカーのマシンやエンジンを購入してプライベーターとして参戦する場合はOK)。 |
| 、銀座の日産本社に挨拶に出向いたが、日産(NISMO)側が星野の能力を惜しんだことに加え当時既にNISMOの社内ではル・マン24時間レース参戦に向けた準備が始まっており、星野はエースドライバーとしての起用が有力視されていた。 |
| 、当時ホンダと日産は直接レースで対決することがなかったホンダはフォーミュラカー路線が基本だったのに対し、日産はグループCを中心に活動していたため。 |
| 全日本ツーリングカー選手権には両社とも参戦していたが、参戦クラスが異なっていたため直接対決はなかった。 |
| ただし、星野との結びつきが強いだけにNISMOのテクニカルスポンサードを受けており、IMPULのマシンにはトヨタとNISMOのステッカーが貼ってあるという奇妙な事態になっている。 |
| 1985年のWEC-JAPANでは、豪雨と霧のためスタートが3時間遅れるほどの悪天候のため海外のワークス勢がしり込みする中、星野がドライバー交替もせず1人で後続を引き離し独走。 |
| 雑誌のコラムで「今まで凄かった車は?」の問いに「日産のグループCカー」と答え「1,000馬力も出たら危ない」と語った。 |
| 当時は毎レースの予選終了後にチームメイトの長谷見昌弘と顔を合わせ、「お互い無事でよかった」と安堵し、Cカーカテゴリーが消滅した際は「もうこれで死ななくて済む」と2人でホッしたという。 |
| 1990年代初頭の全日本F3000のレースで、若手レーサーのミスに巻き込まれて星野がリタイヤに追い込まれた。 |
| 「星野さんに謝りに行ったほうがいい」と周囲に言われてその若手が星野のモーターホームに向かうと、窓ガラスに拳状のヒビが入っており、星野の怒りの大きさにおののいたそのレーサーはその場から退散したという。 |
| 1990年10月、F1のベネトンチームから、直前にヘリコプター事故で右腕を切断したアレッサンドロ・ナニーニの代役としてF1日本グランプリにスポット参戦しないかという正式なオファーがあり、その条件として2,000万円を用意すれば乗れたのだが、先述の通り「プロのレーシングドライバーは金を貰って乗るものであって、それがF1であろうとも自分からたとえ1円でも払って乗りたくはない」という主義を貫いたため、この話はロベルト・モレノへと流れてしまった(結果モレノは2位表彰台獲得、ベネトン1-2フィニッシュ)。 |
| この件に関連して、2003年の日本グランプリ金曜フリー走行にて、愛弟子である本山哲がジョーダンF1のテストドライブが出来る事になり、その場に星野も立ち合ったが感動のあまり、「俺はベネトンから2,000万円で乗らないか、と言われて断ったが、(こんなにF1が凄いのなら)やはり金払ってでも乗ればよかった」と語った。 |
| 1996年のフォーミュラ・ニッポン最終戦において、マシントラブルによりピットに帰ってきてリタイアした際に、ヘルメットを床に叩き付けて悔しがる姿がテレビ中継に映った。 |
| その後、星野にヘルメットを供給していたアライヘルメットの工場を訪れ、「(ヘルメットに八つ当たりして)申し訳ありませんでした」と謝罪したという。 |
| 2001年3月にはスピード違反で免許停止処分を受けたため全日本GT選手権に出場できなくなり、急遽服部尚貴が星野の代わりにレースに参戦した事があった。 |
| またこの時、免停講習を受ける星野の姿が写真週刊誌に掲載され、世間の話題を呼んだ。 |
| マシン開発が激化の一途を辿っていたグループCのマシンの走行テストを富士スピードウェイで行っていた際、突然リアウイングが最終コーナーで加速した途端にへし折れ、コントロールを失ったマシンが空中に浮かんだ格好で数回転スピンし、コンクリートウォールに激突して停止した事がある。 |
| 当時日産はグループCカーとしてマーチやローラ等外部コンストラクターのシャシーを使用していたが、外部メーカー製パーツの品質管理の難しさを痛感した日産はこの事故を契機にパーツの内製比率を増し、最終的に日産・R91CPにて主要パーツを完全自社製とすることになる。 |
| 1998年のル・マン24時間レースへ参戦する際、THE ALFEEが星野のパーソナルスポンサーとして就くことになった。 |
| その際、乗車する日産・R390-GT1のリアタイヤ前方カウルに"THE ALFEETOSHIBAEMI"のロゴが貼り付けられた。 |