| 天保期(1830年~1843年)には、星野家は上野国(現・群馬県)一国を代表する豪農であり、51町6反(154,800坪)の土地、持高にして300石余を有していた。 |
| 事業において地主経営は副次的であり、金融に加えて酒造が経営の柱となっていたが、これらの他に桑樹培育売却、鉱山経営、廻船業(盛時には新造の千石船など6隻を有し仙台藩領石巻を根城に穀物、牧馬、海産物、魚肥等の売買および輸送)などにも及んでいた。 |
| この頃、星野長太郎の曾祖父耕平(星野家8代星野七郎右衛門朋存;1756年生~1840年没)は小黒川の山中(さんちゅう)の入口に位置する水沼村(後の勢多郡黒保根村、現・桐生市黒保根町)の名主であったが、江戸幕府第11代将軍徳川家斉の時、1808年(文化5年)岩鼻代官所 |
| この郡中取締役とは、代官所と村々の間に立って勢多郡山中入(さんちゅういり)18ヵ村(後の勢多郡黒保根村・東村、山田郡大間々町)を支配する役儀であった。 |
| 1816年(文化13年)には曾祖父の8代耕平が苗字帯刀を許され、足尾銅山吹所世話役も拝命した。 |
| 耕平は武蔵国本庄宿の名主(豪商)戸谷半兵衛光寿らの3人衆と上野国の有力名主3人衆を合わせた6人衆の一人として老中、勘定奉行の裁可の下で初めて苗字帯刀を許された。 |
| この時6人衆が共に同管下の足尾陣屋との深い関係から足尾銅山吹所世話役(幕府直営の足尾銅山を資金面から支援する役儀)も拝命した。 |
| 中山道69次で最大の宿場であった本庄宿は足尾銅山を起点とするあかがね街道(銅街道 |
| 実際には星野家では、岩鼻代官所の命により4代彌兵衛(1643年生~1718年没)の代より、既に産銅量がピークを過ぎ運営資金にも窮していた幕府の足尾銅山を財政支援する役儀を担い、彌兵衛はしばしば水沼と足尾代官所(吹所)との間を往復した。 |
| 星野家は6代半兵衛(七郎右衛門朋明;1710年生~1795年没)の時には資産を著しく増殖させ黄金期を迎えた。 |
| その後は7代新七(1788年没)に引き継がれた。 |
| 長太郎の祖父、9代長兵衛(七郎右衛門朋寛;1791年生~1856年没)以降代々が、郡中取締役や足尾銅山吹所世話役などの役儀と苗字帯刀の特権を受け継いだ。 |
| 長兵衛は失敗に帰した東北南部地方の事業からは撤退し、地元での農業を柱とする家政大改革を速やかに実行したため、居村における不動産の減少を回避した。 |
| 文政期(1818年~1829年)には水沼村名主を分家(7代七郎右衛門邦矩(新七)の分家)の弟半平「下の新宅」に譲り、自らは年寄となって幕府の役儀に注力した。 |
| 長兵衛は幕府勘定所とも緊密な関係を築いて幕領支配の一翼を担うまでの存在となり、天領山中入18ヵ村の年寄役で給人格の待遇に処せられた。 |
| 長兵衛は、1833年(天保4年)、上野国碓氷郡川浦山(後の群馬郡倉渕村川浦、現・高崎市倉渕町)の幕府御用材伐採事業を吾妻郡大戸村(後の吾妻郡吾妻町、現・吾妻郡東吾妻町)加部安左衛門とともに幕府に対して無償(供出額は2年間で5,215両)で請負った。 |
| また、国定忠治の逸話の残る天保の大飢饉の最中の1836年(天保7年)、生活に窮した山中の村々から繰り出して生糸買取商らの集まる大間々に向かった千名余の徒党を前にして、大間々村打毀し回避のため私財500両の提供を約束し、以てその暴発を未然に阻止した。 |
| 長太郎の父彌平(10代七郎右衛門朋信;1824年生~1886年没)は大飢饉の後、村民の申し出と協力により後背地の急斜面を切り崩して宅地造成し、上屋敷を広い高台に移し自分と家族の居宅(現星野家実家屋敷跡)とした。 |
| 従来の敷地(旧黒保根村役場の敷地)に下屋敷を建て奉公人らの住まいとした。 |
| 1667年(寛文7年)の寛文検地では星野家は水沼村の村役人で、名請高は5反1歩(1,500坪)だけで村内では18位であった。 |
| 1722年(享保7年)以後は名主になることがあったが世襲ではなかった。 |
| 星野家は市場に隣接した水沼村の立地条件を生かして、生糸や繭を山中の農家から買い集めて市の立つ大間々や桐生へ売込む在方商人(農民身分の商人)に資金を提供する金融で台頭し、享保期(1716年~1735年)に金融業を本格的に営むようになって資産を拡大。 |
| 宝暦・明和期(1751年~1771年)には6町3反余(18,900坪)の耕地を保有する村内随一の有力農民となった。 |
| 文化期(1804年~1817年)には名主役を独占した。 |
| 星野家は天明期(1781年~1788年)より百姓代を占めていたが、文政期(1818年~1829年)は分家(7代七郎右衛門邦矩(新七)の分家)の文蔵「上の新宅」が百姓代を務めていた。 |
| 1813年(文化10年)に勢多郡江木村(後の桂萱村)名主幸七から酒造石高178石6斗を譲り受け山田屋にやらせていたが、1839年(天保10年)以降は星野家が直接経営した。 |
| 星野家が糸商人として活動を始めたのは享保期(1716年~1735年)前後とされるが、天保期(1830年~1843年)には原料繭を購入して製糸する賃挽製糸経営が盛んとなり、天保末年(1843年)頃には購入繭が2000両、賃挽人が100人を超えた。 |
| 天保3年(1832年)における貸付・投資額は8,526両にのぼり、その3割は旗本への用達であった。 |
| 星野家には、平姓にして平安時代中期、藤原北家の藤原秀郷に随従し刀鍛冶職で仕えていたとの口碑が10代彌平まであった。 |
| 祖先は下って平安時代後期の前九年の役で、源頼義に滅ぼされた安倍貞任の弟である安倍宗任が陸奥(居城鳥海柵)から伊予国に配流された時(1063年頃)に主君鳥海弥三郎(安部宗任の別名)と行動を共にした一族郎党(従類700人余)の中にいた。 |
| 暫く配流先の様子を見るため、大勢は宗任の弟鳥海弥三郎家任(安倍家任)と共に京都までの東山道の中間点にあたる勢多郡東村小中(現みどり市)付近に踏み留まった。 |
| 星野家三兄弟のうちの二人は刀鍛冶で、兄の星野右京之助は赤城山麓東部の水沼村字関守に居を定めた。 |
| 弟の左京之助は山麓北西部の沼田(現・沼田市)に居を定め、後に周辺は鍛冶屋と呼ばれた。 |
| 星野家来住以前の水沼村(後の黒保根村)に存したのは最も古い目黒家の他、神山、萩原各家の僅か3戸であった。 |
| 水沼村の記録に残る中世の星野家の祖先(右京之助の子孫)は、1591年(天正19年)に亡くなった星光院悟山玄道居士からといわれ、その次男が初代星野七郎右衛門(1648年(正保4年)没、管星院霊岳曹源居士)を名乗り、屋号カネホン(「曲尺に本」印)の祖となった。 |
| 星野家の菩提寺であった水沼村の常鑑寺は、1571年(元亀2年)年の開山で曹洞宗。 |
| 本堂は安永元年(1772年)再建されたが、村民から大御所様とも呼ばれていた6代半兵衛(七郎右衛門朋明;1710年生~1795年没)がこの時寺に多大な貢献をしたため、寺の中興開基として本堂奥の位牌堂に半兵衛の位牌を安置している。 |
| 幕末期まで星野七郎右衛門の蔵に先祖伝来の刀工用鉄敷が家宝として残され毎年鞴祭 |