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藤原良房
平安時代初期の公卿。藤原北家・藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。子に明子、養子に藤原基経。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公、国公は美濃公。皇... |
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森田悌
日本の歴史学者、群馬大学名誉教授。日本古代史専攻。商法学者森田果の父。東京大学文学部国史学科、同法学部公法課程卒業。1971年金沢大学助教授、教授を経... |
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藤原緒嗣
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ、宝亀5年(774年)-承和10年7月23日(843年8月22日))は平安時代の政治家。藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左... |
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菅原道真
天神 菅原道真 0.目次 本レポートでは以下の通りに調査内容を報告することをここに記す。 1.菅原道真という人物。 2.天神、道真。そして学問の神、道真。 ... |
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仁明天皇
平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 |
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文徳天皇
平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年4月17日(850年5月31日)-天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 |
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黒板勝美
日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。 |
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桓武天皇
日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日))。 |
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承和の変
承和の変(じょうわのへん)は平安時代初期の842年(承和9年)に起きた廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件である。 |
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藤原基経
平安時代前期の公卿。藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。漢風諡号は昭宣公、国公... |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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ルッジェーロ2世
シチリア伯(在位:1105年-1130年)、後にシチリア王(在位:1130年-1154年)。オートヴィル朝の祖。シチリア伯ルッジェーロ1世の息子で、兄シモーネを継いで... |
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嵯峨天皇
日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日)-弘仁14年4月16日(823年5月29日))。諱は神野(かみの)。 |
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高師直
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。官位は三河守、武蔵守。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師... |
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春澄洽子
娘
春澄洽子(はるすみのあまねいこ、生没年不詳)は平安時代の女官、歌人。 |
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伴善男
平安時代前期の貴族。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。 |
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藤原時平
藤原時平(ふじわらのときひら、貞観13年(871年)-延喜9年4月4日(909年4月26日))は平安時代前期の公卿。藤原基経の子。母は人康親王女。子に保忠、顕忠な... |
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高師泰
南北朝時代の武将。『高階系図』では高師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている。 |
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物部
四国放送 の女性 アナウンサー 。血液型はA型。 目次 1 人物 2 担当番組 2.1 TV 2.2 ラジオ 3 過去に担当した番組 3.1 TV 3.2 ラジオ 4 外... |
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藤原冬嗣
平安時代の公卿・歌人。右大臣藤原内麻呂の子。正二位・左大臣。贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。 |
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プロフィール
- 春澄善縄とは
- 生い立ち
- 仁明朝
- 文徳朝
- 清和朝
- 人物
- 系譜
- 参考文献
春澄善縄(はるすみのよしただ、延暦16年(797年)-貞観12年2月19日(870年3月24日)は、平安時代前期の学者・公卿。氏姓は猪名部造、のち春澄宿禰、春澄朝臣。字は名達(めいたつ)。周防国大目・猪名部豊雄の長男。官位は従三位・参議。
生い立ち
| 猪名部氏(猪名部造)は物部氏の庶流にあたるが、祖父の猪名部財麿は伊勢国員弁郡少領、父の猪名部豊雄は従八位下・周防国大目という、白丁(庶民)ではないものの、官人としては最も低い階層の出自であった。 |
| 善縄は幼い頃から聡明であり、その才能に気付いた祖父によって大切に育てられる。 |
| 弘仁7年(816年)に大学寮に入って文章生となる。 |
| 当時、文章科(後の紀伝道)を学ぶ文章生は、下級役人(雑任)や白丁の子弟が入学を許された数少ない学科であった。 |
| ところが文章科で専攻していた正史・漢詩に対する貴族階層の関心の高揚を背景に、弘仁11年(820年)11月15日の太政官符において、従来の方針を一転して文章生は「良家(公卿)子弟」のみに限定する規定が定められる。 |
| これに伴って従来の白丁・雑任出身の文章生は卒業試験である対策を受ける権利を事実上剥奪されることとなったのである。 |
| だが、春澄はそれにめげることなく学業に勤しんだ。 |
| 天長年間に文章博士・都腹赤らの奔走により、淳和天皇の勅旨によって奉試を受けて及第、文章得業生の代わりに設置され本来は良家の子弟しか採用されないことになっていた俊士に列せられた。 |
| 天長4年(827年)常陸少目。 |
| 天長5年(828年)に旧制への復帰に伴って俊士から文章得業生に転じ、兄弟姉妹5人とともに春澄宿禰の姓を授けられた。 |
| 2年後の天長7年(830年)に対策に合格、折りしも内記局の人材不足が問題となっており、淳和天皇により文才が評価され、同年6月に少内記に任命される。 |
| 天長9年(832年)に従五位下に叙せられる。 |
仁明朝
| 翌天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、3月13日には皇太子・恒貞親王(淳和上皇の皇子)の東宮学士に任じられた。 |
| 天長11年(834年)1月12日には摂津介を兼務する。 |
| なお、恒貞親王は自己の不安定な政治的立場を幼くして自覚しており、承和5年(838年)に善縄は親王に代わって皇太子辞退の書(「辞譲之表」)を執筆している。 |
| 承和9年(842年)に嵯峨上皇の崩御をきっかけに承和の変が発生し、恒貞親王が皇太子を廃される。 |
| これに連座した善縄は7月26日に周防権守に左遷されるが、翌承和10年(843年)2月10日には文章博士に任じられて平安京に呼び戻された。 |
| 承和13年(846年)1月13日には備中介を兼ねる。 |
| 皮肉にも、承和の変の背後にいたともされる仁明天皇と藤原良房の信任を受けるようになり、承和14年(847年)5月11日には、清涼殿において『荘子』の講義を行い、仁明天皇から束脩の礼を受ける。 |
| 続いて同27日には清涼殿にて『漢書』の講義を行った。 |
| 承和15年(848年)2月14日には正五位下に叙されて文章博士兼務のまま備中守に転じた。 |
文徳朝
| 嘉祥3年(850年)4月17日に文徳天皇即位と同時に従四位下に叙せられ、仁寿元年(851年)4月25日には北殿において文徳天皇に『文選』の講義を行っている。 |
| 仁寿2年(852年)1月15日には但馬守に任じられ、仁寿3年(853年)10月11日には朝臣の姓を授けられた。 |
| 斉衡元年(854年)9月23日に但馬守兼務のまま刑部大輔に任じられる。 |
| 斉衡2年(855年)2月17日には藤原良房・伴善男らとともに国史編纂を命じられた。 |
| その後、善男の応天門の変による失脚などがあって最終的に良房と2人のみ(実際には善縄の単著)となって、貞観11年(869年)8月14日に『続日本後紀』として完成させる。 |
| 斉衡3年(856年)11月3日には文徳天皇に『晋書』を講義した。 |
| 天安元年(857年)1月14日には伊予守を兼ね、同年12月9日には右京大夫に任ぜられる。 |
| 天安2年(858年)1月7日には従四位上に叙される。 |
清和朝
| 貞観2年(860年)1月16日には参議に任じられ公卿に列す。 |
| 貞観3年(861年)1月13日には式部大輔を兼ねる。 |
| 貞観4年(862年)1月7日には正四位下に叙せられる。 |
| 貞観5年(863年)2月10日には播磨権守も兼ね、貞観6年(864年)1月16日には兼務の播磨権守から近江守に転じる。 |
| 貞観12年(870年)1月25日には兼務が近江守から讃岐守に変更されるが、この頃病が重くなる。 |
| 同年2月7日に急遽従三位に叙せられ、太政大臣・藤原良房から見舞いとして衣服が届けられた。 |
| だが、同年2月19日に、従三位参議兼式部大輔兼讃岐守在任のまま死去した。 |
人物
| 『扶桑略記』には「在朝の通儒」と評されたが、儒教や歴史のみならず、『周易』・『老子』・『荘子』の三玄の学に通じて、陰陽道に対する造詣が深かった。 |
| 紀伝道においては、菅原清公・是善父子が相次いで文章博士を務めて私に文章生と師弟関係を結び(菅家廊下)、これに反発する都良香・巨勢文雄らとの間で一種の学閥争いが生じていた。 |
| しかしながら、善縄は恬淡な人柄で、文章博士の任にあった際に文章生が私邸を訪れても、これを謝絶して学閥争いに関わることを避けたという。 |
| 『日本三代実録』貞観12年2月19日条。 |
| 物事に注意が行き届いて慎重であり、飾り気がなかった。 |
| また、自らの優れている点をもって、他人を侮るようなことはなかった。 |
| 陰陽道を信じて物忌みに拘り、物怪があるごとに門を閉ざし斎禁して人を通らせないようにしたが、その頻度は月に10回ほどにも及んだ。 |
| ただし、高位に昇った後は斎忌のことはやや簡略にしたという。 |
| 年老いても聡明さは増し、文章は益々美しくなった。 |
| 親戚を除いては自邸に客人が訪れることも希で、酒宴が開かれることもなく家はのどかな様子であったという。 |
系譜
| 父:猪名部豊雄。 |
| 妻:橘島田麻呂の娘。 |
| 男子:春澄具瞻。 |
| 男子:春澄魚水。 |
| 女子:春澄洽子。 |
| 娘の洽子は、後に父と同じ従三位に叙せられて掌侍・典侍を務めたものの、男子2人は五位に終わり、春澄氏は程なく歴史から姿を消す。 |
参考文献
| 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し日本三代実録上巻』戎光祥出版、2009年。 |
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春澄善縄さんについてのひとこと紹介
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