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プロフィール
- 昭和天皇とは
- 概要
- 少年時代
- 皇太子時代
- 即位と第二次世界大戦
- 「象徴天皇」として
- 年譜
- 宮中某重大事件
- 二・二六事件
- 和平に向けて
- 靖国親拝
- 財産
- 関連サイト
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年4月29日-1989年1月7日)は、日本の第124代天皇(在位:1926年12月25日-1989年1月7日)である。諱は裕仁( ひろひと)。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。
概要
| 歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(87歳)であった。 |
| 大日本帝国憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制の天皇として、終戦の国策決定などに深く関与した。 |
| 1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法の下では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇として「国政に関する権能を有しない」ものとされた。 |
| しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。 |
| 主権回復後には、象徴天皇として皇室外交を行った。 |
| また、天皇としての公務の傍らヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを、生物学研究者として研究した。 |
少年時代
| 1901年(明治34年)4月29日、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一男子として誕生。 |
| 同年5月5日、称号を迪宮(みちのみや)、名は裕仁(ひろひと)と命名された。 |
| 産まれたとき、身長は51cm、体重800匁(約3000g)であったという。 |
| 生後70日の同年7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。 |
| 1904年(明治37年)11月9日、川村伯の死去により、弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に移った。 |
| 1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、翌1907年(明治40年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の教育を受けた。 |
皇太子時代
| 1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。 |
| 大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。 |
| 翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。 |
| 1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。 |
| 1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。 |
| 1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。 |
| 1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子・良子女王を皇太子妃に内定。 |
| 1919年(大正8年)4月に満18歳となり、同年5月7日に成年式が執り行なわれると共に、貴族院皇族議員となった。 |
| 1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、同年11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。 |
| 1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。 |
| 大正天皇の病状悪化の中で、同年3月3日から9月3日まで、軍艦香取でイギリスをはじめ、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5カ国を歴訪。 |
| 同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。 |
| 1923年(大正12年)4月、軍艦金剛で台湾を視察する。 |
| 同年9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。 |
| 同年10月1日に御学問開始。 |
| 同年10月31日に陸海軍中佐に昇任した。 |
| 同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。 |
| 1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。 |
| 1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。 |
| 同年8月、戦艦「長門」で樺太を視察。 |
| 同年10月31日に陸海軍大佐に昇任した。 |
| 同年12月、第一皇女・照宮成子内親王が誕生。 |
即位と第二次世界大戦
| 1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元(昭和とは)別の元号(光文)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったので昭和に変更したとの説もある(光文事件)。 |
| 1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。 |
| 同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う1929年(昭和4年)以降は皇居内で田植えを行った。 |
| 同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。 |
| 同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴を受けた(北原二等卒直訴事件)。 |
| 1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。 |
| 9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。 |
| 11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。 |
| 1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社参拝。 |
| 9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。 |
| 1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全国の公私立学校へ下賜する。 |
| 3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。 |
| 1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。 |
| 1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇男子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し祝賀を受ける。 |
| 1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇男子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。 |
| 1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本営を設置。 |
| 1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。 |
| 1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。 |
| 1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対米英開戦を決定し、12月8日に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出した。 |
| 1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。 |
| 同年12月31日には御前会議を開いた。 |
| 1943年(昭和18年)1月8日、皇居吹上御苑内の御文庫に移住した。 |
| 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に被災地を視察した。 |
| 5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、皇居宮殿が炎上した。 |
| ポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。 |
| 8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した。 |
| 同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により国民に終戦を伝えた(玉音放送)。 |
| 9月27日に、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーをアメリカ大使館へ初めて訪問。 |
| 11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告参拝を行った。 |
| また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも参拝して終戦を報告した。 |
「象徴天皇」として
| 180px|thumb|昭和31年(1956年)、正装姿の昭和天皇・香淳皇后。 |
| 1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。 |
| 2月19日、戦災地復興視察のため横浜を訪問(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。 |
| 1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。 |
| 6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。 |
| 1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出席し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。 |
| 1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた独立記念式典で天皇退位説を否定する。 |
| また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ参拝し、日本の国家主権回復を報告した。 |
| 10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖国神社に参拝した。 |
| 1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。 |
| 1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。 |
| 帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた日本記者クラブ |
| 1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。 |
| 1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。 |
| 1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。 |
| 1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を体調不良から中座する。 |
| 以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至った為、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。 |
| 同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えたが体重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。 |
| 8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。 |
| 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により崩御(87歳)。 |
| 崩御後、政府は藤森昭一宮内庁長官が「天皇陛下におかせられましては、本日、午前六時三十三分、吹上御所において崩御あらせられました。 |
| 2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。 |
年譜
| 1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、青山の東宮御所で生まれる。 |
| 大正元年(1912年)7月30日、父・大正天皇の践祚に伴い、皇太子となる。 |
| 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行ない、践祚して第124代天皇となる。 |
| 1929年(昭和4年)、神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。 |
宮中某重大事件
| 1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。 |
二・二六事件
| 1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りも露に「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あると言うのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる『本庄繁日記』昭和11年(1936年)2月27日付。 |
和平に向けて
| 会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では受諾賛成が鈴木(首相)、東郷(外相)、米内(海相)、受諾反対が阿南(陸相)、梅津(参謀総長)、豊田(軍令部総長)であった。 |
靖国親拝
| 昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反である、とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不快感をもっていたからとの説が浮上している。 |
財産
| 皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。 |
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父・大正天皇の践祚に伴い、皇太子となる |
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