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孝成王
新羅の第34代の王(在位:737年-742年)。姓は金、諱は承慶。先代の聖徳王の第2子であり、母は順元伊飡(2等官)の娘の。王妃は初め(朴?)永宗の娘を立てて... |
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興徳王
興徳王(こうとくおう、生年不詳-836年)は新羅の第42代の王(在位:826年–836年)であり、姓は金、諱は秀宗、のちに景徽(けいき)と改名した。父は38代元聖... |
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釈迦如来
仏教の開祖釈迦〔姓名:瞿曇悉達多(くどんしっだった、クドンシッタルタ)梵語:(ガウタマ・シッダールタ)パーリ語:(ゴータマ・シッダッタ)〕を仏(仏... |
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憲徳王
憲徳王(けんとくおう、生年不詳-826年)は新羅の第41代の王(在位:809年-826年)であり、姓は金、諱は彦昇。父は第38代元聖王の元太子の金仁謙(昭聖王によ... |
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文武王
新羅の第30代の王(在位:661年–681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃... |
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聖徳王
聖徳王(せいとくおう、生年不詳-737年)は新羅の第33代の王(在位:702年–737年)であり、姓は金、諱は興光。元の名は隆基であったが、唐の玄宗と同名であっ... |
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元聖王
元聖王(げんせいおう、生年不詳-798年)は新羅の第38代の王(在位:785年-798年)であり、姓は金、諱は敬信。第17代の奈勿尼師今の十二世孫であり、父は一吉... |
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神文王
神文王(しんぶんおう、生年不詳-692年)は新羅の第31代の王(在位:681年–692年)であり、姓は金、諱は政明(『三国史記』新羅本紀・神文王紀の分注には明之... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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新羅王
秦氏と新羅王伝説 皆神山すさ/著 出版社名 : 彩流社 出版年月 : 2010年4月 ISBNコード : 978-4-7791-1527-1
( 4-7791-1527-2 ) 税込価格 : ... |
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善徳女王
新羅の第27代の王(在位:632年-647年)。新羅初の女王であると同時に、日本の推古天皇に続いて東アジア2例目の女性君主である。奇しくもその在位期間は同じ... |
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恵恭王
恵恭王(けいきょうおう、758年-780年)は新羅の第36代の王(在位:765年-780年)であり、姓は金、諱は乾運。先代の景徳王の嫡男であり、母は舒弗邯(1等官)... |
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孝昭王
新羅の第32代の王(在位:692年–702年)であり、姓は金、諱は理洪(『三国史記』新羅本紀・孝昭王紀の分注には理恭ともいう)。先代の神文王の長子であり、母... |
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宣徳王
祖父を元訓角干、父を孝方海干(4等官)、母を四召夫人、王妃を狼品角干の娘の具足王后とする。780年4月に先代の恵恭王を殺して王位に就いた。宣徳王以降を新... |
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薬師如来
大乗仏教における如来の一尊。大医王仏とも称する。三昧耶形は薬壷または丸薬の入った鉢。種子(種字)は尊名のイニシャルのバイ(bhai)。 |
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半月城
半月城です。
今回の内閣改造では、靖国参拝派かつ強硬派の麻生太郎氏が外相に、安倍晋三氏が官房長官という要職を占めることになりました。アジア外交はこ... |
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江原道
Home About 江原道 道知事紹介 プロフィール content 歴代道知事 Choi Moon-soon 氏名 崔文洵 在任期間 2011.4.28~第36代 江原道知事 道政ロ号 道政方針 ... |
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李成桂
李成桂(り・せいけい、イ・ソンゲ、太祖<たいそ>康献王忠粛王4年10月11日(1335年10月28日)-太宗8年5月24日(1408年6月18日))は元(モンゴル)の武官、13... |
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弓裔
新羅末期・後三国時代の群雄の一人で、後高句麗を建国した王(901年-918年)。姓は金、僧号は善宗。 |
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プロフィール
景徳王(けいとくおう、?-765年)は、新羅の第35代の王(在位:742年–765年)で、姓は金、諱は憲英。先代の 孝成王の同母弟であり、父は33代 聖徳王、母は順元(2等官)の娘の。王妃は舒弗邯(1等官)の金義忠の娘の満月夫人(景垂王后)。 孝成王に子がなかったために739年5月に太子に立てられており、742年5月に 孝成王の死去に伴い王位に就いた。
治世
| 唐からは先王の官爵を継承することを許され、743年にあらためて<新羅王・開府儀同三司・使持節・大都督・鶏林州諸軍事・兼充持節・寧海軍使>に冊封された。 |
| また、このとき、玄宗自らが注釈をつけた『孝経』を下賜されている。 |
| この後も王弟を賀正使として唐に派遣したり、度々の朝貢を行なったりして、唐との親密な関係は維持された。 |
| 日本との交流においては、半島統一後の唐や渤海に対する緊張感のために背後となる日本に対しては低姿勢の外交を行なってきていたが、唐との関係を回復するにつれて、すでに聖徳王の頃から対立を生じるようになっていた。 |
| また、唐とともに共通の敵国とした渤海が文王大欽茂の即位とともに唐との平和的な関係を築き、かつ日本へも接近するようになったために、いよいよ新羅と日本との外交にも大きな変化が現われることとなった。 |
| 両国間では頻度は低くなったものの互いに使者の行き来はあったが、政府としては使者を正式に迎え入れなくなったことがそれぞれの史料に残っている新羅側においては、『三国史記』巻九・新羅本紀・景徳王紀「元年(742年)冬十月。 |
| 」「十二年(753年)秋八月。 |
| 日本側においては『続日本紀』巻十四・聖武紀「(天平十四年(742年)二月)戊寅(中略)新羅使沙飡金欽英等一百八十七人来朝。 |
| 庚辰(中略)便令右大弁紀朝臣飯麻呂等饗金欽英等於大宰。 |
| 官吏を弾劾するための職能を持つ司正府を創設『三国史記』新羅本紀では745年に景徳王による創設とするが、同書・職官志では武烈王の6年(659年)の創始とし、景徳王代には他の官名と同じように改名(司正府→粛正台)されたものとする。 |
| 、官吏を監察するために貞察を配置『三国史記』新羅本紀では748年8月に初めて貞察1名を配置したと記すが、同書・職官志では746年の内司正典(内省の官吏の監察)を創始した際に貞察2名を配置したと記している。 |
| したように、官僚機構の維持を図るとともに、752年には倉部(徴税)の史(3次官)を3名増員するなど徴税業務の増大への対応をしていたことからも、王権とともに国力が充実した様がうかがえる。 |
| また、757年には上大等の金思仁を病気を理由に解任し、後任の金信忠も763年には政治的責任を追及して罷免した。 |
| 上大等は新羅の中央貴族連合勢力の頂点にある有力者であって一王代を通じて辞職することは認められなかったものであるが、先例となる聖徳王代には老齢を理由とする辞職願いを許可したものであったのに対し、景徳王代の解任劇では上大等の地位そのものが低下し、中央官僚制に組み入れられた一官職に過ぎない様相を呈するに至った。 |
| 757年12月には九州・五小京を含んだ全国各地の地名を固有語から中国風の漢字2文字に変更した。 |
| また、759年正月には中央官庁とそれに属する官職名についても中国風のものに変更している。 |
| 地名改称については州に所属する郡県の区域の改定も行なっており、単なる美名改称ではなく、従来の三国時代の伝統を考慮した地方行政を律令体制の立場から再編推進しようとする意図のものであると考えられている井上1972p.228。 |
| しかしこうした律令体制を推進する政策の一方で、757年3月には官僚への俸給制度を廃止して禄邑制度を復活させている。 |
| 土地と人民とを直接支配するために神文王の時代(689年)に禄邑制度から俸給制度に移行していたが、70年足らずでの制度復旧は、地域支配を基盤とする貴族連合の要求に妥協したもであり、当時の新羅では律令体制推進派と貴族連合体制への復帰派との政争があったものと見られている井上1972p.228。 |
| また、禄邑制の復活については、中央集権的な官僚制の行き詰まりと矛盾の現われとも指摘される。 |
| →武田2000p.101。 |
| 762年5月には現在の黄海道方面に五谷(瑞興郡)・鵂巌(鳳山郡)・漢城(載寧郡)・池城(海州市)・徳谷(谷山郡)の六城を築いて渤海への備えとした。 |
| また、東宮や永昌宮の修繕、宮中に大池を造成、蚊川(慶州市の南川)に月浄橋・春川橋を架橋、永興寺(慶州市)・元延寺(未詳)の修築など、鎮護国家のため、土木事業を大いに行なったことが伝えられている。 |
| その極め付きは仏国寺であり、751年に建立が開始され、次の恵恭王の時代までかかって完成したものである。 |
| 在位24年にして765年6月に死去し、景徳と諡されて(『三国遺事』王暦では頃只寺とする)の西の峰に埋葬された。 |
| 慶州市内南面の史跡第23号が景徳王陵として比定されている。 |
参考文献
| 『三国史記』第1巻金富軾撰井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980ISBN4-582-80372-5。 |
| 『三国史記』第3巻金富軾撰井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986ISBN4-582-80454-3。 |
| 『完訳三国遺事』一然著金思燁訳、明石書店、1997ISBN4750309923(原著『完訳三国遺事』六興出版、1980)。 |
| 『続日本紀』伴信友校訂、岸田吟香他1883(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。 |
| 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972ISBN4-14-001172-6。 |
| 『朝鮮史』武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000ISBN4-634-41320-5。 |
関連項目
| 渤海:文王(大欽茂)(在位:737年-793年)。 |
| 石窟庵と仏国寺-世界遺産(文化遺産)。 |
| 地名#その他-固有語表記の地名を中国風の漢字二文字に変更。 |
| 新羅#九州、新羅#五小京。 |
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