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李鴻章
中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 |
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同治帝
清国の軍閥化が進行してきた証左であると言える。西太后に信任された李鴻章により、政治と軍隊の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せた(洋務運動... |
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左宗棠
清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に... |
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横井小楠
日本の武士(熊本藩士)、儒学者、政治家。維新の十傑の1人。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招... |
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胡林翼
湖南省益陽の人。1836年、進士となり翰林院編修となった。その後、貴州省安順・鎮遠の知府となり、ミャオ族蜂起や湖南省の李沅発の乱を鎮圧した。湖南巡撫張... |
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袁世凱
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、... |
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洪秀全
洪秀全(こうしゅうぜん、ピンイン:hóngxìuqúan、1814年1月1日〔嘉慶18年12月10日〕-1864年6月1日〔同治3年4月27日〕)は中国の宗教家・革命家。原名はもとも... |
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張之洞
張之洞(ちょうしどう)は清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称される。字は孝達、... |
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西太后
清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺... |
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康有為
清末民初にかけての思想家・政治家・書家。字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。 |
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曽紀沢
曽紀沢(そうきたく、ZengJize、1839年-1890年)。字は劼剛、号は夢瞻。清末の外交官。曽国藩の長男。湖南省湘郷出身。1870年、父の功で戸部員外郎に任ぜられ... |
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咸豊帝
咸豊帝(かんぽうてい、道光11年6月9日(1831年7月17日)–咸豊11年7月17日(1861年8月22日)、在位:1850年3月9日-1861年8月22日)は中国清朝の第9代皇帝。諱... |
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石達開
太平天国の指導者の一人。洪秀全から翼王に封ぜられ、五千歳と称した。広西省貴県出身。洪秀全が開いたキリスト教秘密結社拝上帝会に加入。1851年に金田蜂起... |
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林則徐
中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を二回務めている。字は少穆(しょうぼく、Shǎomù)。諡は文忠(ぶんちゅう、Wénzhōng)。イギリスによる阿片密輸の取り締... |
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光緒帝
光緒帝(こうしょてい、こうちょてい、同治10年6月28日(1871年8月14日)-光緒34年10月21日(1908年11月14日)、在位:1875年2月25日-1908年11月14日)は中国... |
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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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羅沢南
羅沢南(らたくなん、LuoZenan、1807年-1856年)、字は仲岳、号は羅山。清朝の朱子学者、湘軍の指揮官の一人。湖南省湘郷出身。挙人出身で、兵書・春秋左氏伝... |
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王陽明
中国の明代の儒学者、思想家。朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をも... |
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梁啓超
梁啓超(りょうけいちょう)は清末民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに中国之新民他きわめて多数のペンネ... |
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プロフィール
曽国藩(そうこくはん、、嘉慶16年10月11日(1811年11月26日)-同治11年2月4日(1872年3月12日))は中国清代末期の軍人、政治家。字は伯函、号は滌生(てきせい)、諡は文正。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。
略歴
| 嘉慶16年(1811年)、湖南省湘郷県(現在は湘郷市)にて誕生。 |
| 道光18年(1838年)、進士となるが、咸豊2年(1852年)に礼部右侍郎在職中に、母の死去により、喪に服すため帰郷。 |
| 太平天国の乱が勃発すると政府により団練の組織を命ぜられた。 |
| 清の正規軍である八旗は堕落しており太平軍に連戦連敗であったので、曽国藩は郷勇(義勇軍的な私兵部隊)を組織すると厳格な軍紀を適用した。 |
| これが後の湘軍の元となり、強さを発揮して太平天国軍を破った。 |
| 咸豊4年(1854年)、湘軍は武昌を収復したが、軍機大臣祁雋藻が湘軍を危険視する奏上をしたため、兵部侍郎の待遇を得ただけだった。 |
| 咸豊5年(1855年)、太平天国軍に攻められ武昌が陥落。 |
| その後、南昌で一年懸けて湘軍を建て直した。 |
| 咸豊7年(1857年)父である曾麟書の死去に当たっては、非常時のため、奪情起復を行い、喪に服さなかった。 |
| 湘軍は咸豊8年(1858年)には九江を、咸豊10年(1860年)には安慶を包囲して翌年に陥落させた。 |
| 1860年、政府は曽国藩に対して恐れを抱きつつも、政府軍ではどうすることも出来ず、軍機大臣の穆彰阿は曽国藩を両江総督(江蘇省・安徽省、江西省の3つを合わせた地方の軍政・民政の両方を担当する長官)、欽差大臣とした。 |
| 同治3年(1864年)、激しい攻防戦の末に太平天国軍の首都天京(南京)を陥落させ、太平天国を滅亡させた。 |
| この功績により侯爵とされる。 |
| 乱後、その功績と兵力の大きさにより、政府から警戒されるようになるが、湘軍を解散させることでこれを避ける。 |
| 洋務運動にも参加し、洋式の兵器工場の設立・留学生の派遣などを行った。 |
| また後進の育成にも力を注ぎ、その幕下からは李鴻章・左宗棠など多くの人材を輩出した。 |
| 1868年、清朝に仕える漢民族としては初めて、地方官としては最高位に当たる直隷総督となった。 |
| 在任中には「天津教案」が発生し、その処理に当たっている。 |
| 同知9年(1870年)に両江総督馬新貽が暗殺されると、曽国藩が両江総督に復帰した。 |
| 同治11年(1872年)、在職のまま死去。 |
| 曽は文人としても一流であり、その作品は『曽文正公全集』・『曽文正公手書日記』に纏められている。 |
| また朱子学者としても著名であった。 |
| 両広総督の曽国荃は弟、外交官の曽紀沢は長男である。 |
著作リスト
| 『曽文正公全集』李瀚章編、李鴻章校勘。 |
| 文海出版社、1976年。 |
| 『曽文正公手書日記』()。 |
| 『曽国藩家書』台湾版と大陸版があるようだ。 |
| 台湾版は曾研究者の唐浩明編-->。 |
評価
| 中華民国時代には、漢奸として評価は最低で現代中国でも、近代化に果たした役割は考慮されたが共産党政府が正義扱いしている太平天国を鎮圧した人物であるために、長らく悪役扱いされてきた。 |
| しかし2000年前後に曽国藩の大ブームが起こり、書店の人文書のコーナーに曽国藩に関する本が平積みされる事態まで起こった。 |
| こうした「曽国藩」ブームは、政治家として位人臣を極め、さまざまな新しい政策を行いつつも、失脚することなく最期まで富貴のまま終わった彼の生きざまを学ぼう、ということから起こっていたようだ。 |
| 改革開放によって生じた中国人の志向がよく出たエピソードである。 |
| なお、本の内容には曽が作った家訓や、身の処し方について記したものが多い。 |
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1811年
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湖南省湘郷県(現在は湘郷市)にて誕生 |
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1854年
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湘軍は武昌を収復したが、軍機大臣が湘軍を危... |
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