| 東京市牛込区市谷砂土原町の小島家に生まれ、幼少の頃に鉄道院技師朝比奈林三郎の養子となり朝比奈姓となる。 |
| 虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津小学校を経て小田原町立第三小学校に学ぶ。 |
| 小学校3年の3学期から東京に呼び戻され、麻布尋常小学校に転入学。 |
| まもなく東京府青山師範学校附属小学校に転じたが、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)や府立・市立の有名校に不合格となり、私立高千穂中学校に進む。 |
| 1922年(大正11年)3月、旧制東京高等学校尋常科2年の編入試験を受けて同校に転入学。 |
| 1923年(大正12年)に養父と養母が相次いで病死したため朝比奈姓のまま生家の小島家に戻る。 |
| この養父母の死によって、朝比奈は実父が渡辺嘉一と知る。 |
| また、実母に関しても朝比奈の長男朝比奈千足は、朝比奈隆伝の著者・中丸美繪に「父が、嘉一と小島里との間の子供であること、父が里の三男であることに関しては確証がありません」と証言している『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』p.46。 |
| 同年9月の関東大震災で焼け出されて朝比奈家で同居していた父方の親戚の岡部左久司当時、早稲田高等学院在学中。 |
| のち内務省技官の影響でヴァイオリンの魅力に惹かれ、朝比奈家の祖母からヴァイオリンの焼け残りの中古品を買い与えられたことがきっかけで音楽に興味を示すようになった。 |
| 当初は東京高等学校尋常科の音楽教師田中敬一にヴァイオリンを習っていたが、やがて田中の紹介で橋本国彦に師事するに至る。 |
| ヴァイオリンの練習の傍ら、サッカーや登山、スキー、乗馬、陸上競技などのスポーツにも熱中していた。 |
| 当時の同級生かつヴァイオリン仲間に篠島秀雄がいる。 |
| 旧制東京高等学校高等科文科乙類では同級に日向方斎や清水幾太郎、宮城音弥、内田藤雄、平井富三郎、出淵国保がいた。 |
| 旧制高校時代には友人と弦楽四重奏団を結成したり、1927年2月20日の新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会を聴いたりもした。 |
| 1928年(昭和3年)、京大音楽部の指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテルを目当てとしてただし、東京高校時代の同級生の伊部恭之助(住友銀行頭取)によると、朝比奈は東京帝国大学法学部の入試に失敗して京都帝国大学に進んだという。 |
| 中丸美繪『オーケストラ、それは我なり』(文藝春秋社、2008年)p.62。 |
| 京都帝国大学(現京都大学)法学部に入学。 |
| 法学部在学中には同大学のオーケストラ(京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当。 |
| やがて指揮をメッテルに師事、その他、レオニード・クロイツァーやアレクサンドル・モギレフスキーの影響を受けた。 |
| 1930年(昭和5年)、高等文官試験に落第。 |
| 1931年に京都帝国大学(現京都大学)法学部を卒業。 |
| 鉄道省勤務の実兄の推薦により、月給60円で2年間阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に勤務。 |
| 電車の運転や車掌、百貨店業務、盗電の摘発などを行う傍ら、チェリストの伊達三郎の誘いで大阪弦楽四重奏団のヴァイオリン奏者として大阪中央放送局(JOBK)に出演。 |
| 1933年(昭和8年)、会社員生活に飽き足らず「もう一度学問をやり直したい」という理由で退社し、改めて京都帝国大学文学部哲学科に学士入学し、1年留年して1937年(昭和12年)に卒業。 |
| 卒論は中世音楽史を扱った内容だった。 |
| この間、1936年(昭和11年)2月12日に初めてオーケストラ(後の大阪フィルハーモニー管弦楽団)を指揮。 |
| また、1934年(昭和9年)より月給30円で大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に勤めて一般教養課程でドイツ語・英語・音楽史・心理学を教えていたが、卒業後、1937年(昭和12年)から教授となった。 |
| 1940年(昭和15年)1月31日、新交響楽団の演奏会でチャイコフスキー交響曲第5番他を指揮し、プロデビューを果たす。 |
| 1941年(昭和16年)、田辺製薬創始者田辺五兵衛会長の実弟、武四郎の長女で東京音楽学校ピアノ科卒の町子と結婚し、神戸市灘区篠原町に居を定める。 |
| 同年、日米開戦。 |
| 1942年(昭和17年)からは月給200円で大阪放送管弦楽団の首席指揮者となり、戦意高揚のため『荒鷲に捧げる歌』『海の英雄』などを演奏。 |
| 1943年(昭和18年)11月末、中川牧三1902年(明治35年)生まれ。 |
| 京都府出身の声楽家、陸軍中尉。 |
| 当時、陸軍報道部専任の将校として新聞検閲官を兼ね、文化担当の権限を一手に掌握していた。 |
| 近衛秀麿やオットー・クレンペラー、ヒンデミットに指揮を学び、2004年(平成16年)に101歳で指揮台に立ち、「現役の世界最高齢指揮者」として話題を集めた。 |
| 2008年(平成20年)3月18日、105歳で死去。 |
| の推薦で大陸に渡り、同年12月8日の「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに上海交響楽団(1943年)で指揮。 |
| 上海滞在中、1944年(昭和19年)1月、タラワ、マキン両島で玉砕した兵士を弔う歌の作曲を海軍省から命じられ、一晩で書き上げる。 |
| 1944年(昭和19年)、日本に戻ってからは再び大阪中央放送局に戻り、時おり慰問や軍歌放送の仕事をしていたが、同年5月、要請を受けて大木正夫と満州国に行き、満州映画社長の甘粕正彦と会い、約1ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団を視察。 |
| 同年秋に再び要請され、妻と伊達三郎を伴って渡満し、大木の交響曲『蒙古』を指揮。 |
| 同年12月にも渡満。 |
| 1945年(昭和20年)には関東軍の嘱託を命ぜられ、満州全土を演奏旅行。 |
| 大阪と神戸が空襲で被災した上、満州での活動が波に乗ったこともあり、関東軍報道部長の誘いで1945年(昭和20年)5月には妻と長男を呼び寄せて本格的に満州に移住、ハルビン特務機関の指揮下に入りハルビンのヤマトホテルに居住したが、8月に終戦を迎えた。 |
| ソ連占領軍進駐後、弟子の林元植(後述)や朝比奈ファンの歯科医、小畑蕃などによって日本人狩りの暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビンに蟄居。 |
| この間、国民政府からの依頼で中国人のオーケストラを編成し、アンサンブルの指導を行っている(1945年10月-1946年4月)。 |
| 1946年(昭和21年)8月から2ヶ月かけて神戸の自宅に引き揚げた。 |