| 父は六兵衛で次男。 |
| 幼名は不明だが、彼の生涯については自身の残した宿帳や奉経帳記録や自叙伝である『四国堂心願鏡』、各地に残した仏像背銘などから、かなり詳細にたどることができる。 |
| 1731年(享保16年)、14歳(数え年、以下同)の時、家人には「畑仕事に行く」と言い残して出奔(家出)し、江戸に向かったという。 |
| 『心願鏡』によれば、1739年(元文4年)、22歳の時に相模国(神奈川県伊勢原市)の古義真言宗に属する大山不動で出家したという。 |
| 「木喰」と名乗るようになるのはそれから20年以上を経た1762年(宝暦12年)、彼はすでに45歳になっていた。 |
| この年、彼は常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、師の木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた「戒」とは仏教者として守るべき規律のことであり、「木食」とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち(穀断ち)、山菜や生の木の実しか口にしないという戒律である。 |
| 古来、木食上人と呼ばれた人物は他にも複数おり、豊臣秀吉に重用され、高野山の復興に尽力した木食応其(もくじきおうご)上人は中でもよく知られているが、木喰仏の作者である木喰上人の場合は、「口へん」の「喰」の字を使用する点で他の「木食上人」と区別しやすい。 |
| 当初「木喰行道」と称したが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改めている。 |
| 木喰が廻国修行(日本全国を旅して修行する)に旅立つのは、木食戒を受けてからさらに10年以上を経た1773年(安永2年)、56歳の時である。 |
| 以後、彼の足跡は、弟子の木食白道白道は山梨郡上萩原村(甲州市塩山)に生まれた木喰僧で、安永2年(1773年)に伊豆国で木喰と出会い、木食戒を受けている。 |
| その後も木喰に同行して廻国し造仏を行っているが、近年山梨県立博物館による赤外線ビデオを用いた初期木喰仏の背面調査によれば、初期の木喰仏と考えられていたものは白道に造仏であると指摘されている。 |
| とともに北は北海道の有珠山の麓から、南は鹿児島県まで、文字通り日本全国にわたっており、各地に仏像を残している。 |
| 確認できる最初期の仏像は1778年(安永7年)、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものである。 |
| つまり、仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できる。 |
| この間、佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を遍歴した。 |
| 木喰仏と言えば、特有の微笑を浮かべた仏像が多いが、蝦夷地で制作した初期の作品では、まだ作風もぎこちなく、表情も沈鬱なものが多い。 |
| 故郷の甲斐国丸畑には60歳、68歳、83歳の3度帰っている。 |
| 83歳の1800年(寛政12年)の帰郷は、念願であった回国(日本一周)を果たした後で。 |
| 同年10月に丸畑へ入る。 |
| 木喰は甲斐国においてこの時期に最も多くの作品を残しているが、翌寛政14年に丸畑や横手など近在村人の依頼で丸畑に四国堂建立に取りかかり、同年3月から四国八十八箇所霊場にちなんだ八十八体仏のほか弘法大師像や自身像などを含めた九十体あまりの四国堂諸仏を製作し、四国堂に安置した。 |
| また、完成後の享和2年には自身の半生を回顧した『四国堂心願鏡』を著している。 |
| 四国堂諸仏は木喰晩年特有の群像による微笑仏で、造形的特徴として縁に放射状の刻みをもった頭背を持ち、三部の台座には最上部の荷葉に列弁状の彫刻が施されている。 |
| 四国堂は大正時代に解体され、安置されていた木喰仏も四散した。 |
| 1913年に柳宗悦が見た木喰仏も四国堂の旧仏であった。 |
| 木喰は故郷に安住することなく、85歳にしてまたも放浪の旅に出、91歳の1808年(文化5年)まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっている。 |
| 91歳の時、甲府(甲府市金手(かねんて)町)の教安寺に七観音像(甲府空襲で焼失)を残し、甲斐善光寺において阿弥陀如来図を書き残してから木喰は消息を絶った。 |
| 故郷の遺族にもたらされた記録によれば、1810年(文化7年)、93歳でこの世を去ったことになっている。 |
| 最期の地は、木喰戎を受けた水戸の羅漢寺ではなかったかと言われているが、確証はない。 |
| 木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して木喰の里微笑館が建てられている。 |