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株式会社ウェルネス医療情報センターより情報提供を受けて掲載しております。 内容につきましては、念のため病院・診療所にご確認下さい。 |
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プロフィール
- 木村拓也とは
- 来歴・人物
- 日本ハム時代
- 広島時代
- 巨人時代
- 巨人コーチ時代
- 突然の死
- プレースタイル
- ユーティリティープレイヤー
- アテネオリンピック日本代表として
- 2009年9月4日、対ヤクルト17回戦
- エピソード
- 記録
木村拓也(きむらたくや、1972年4月15日-2010年4月7日)は、宮崎県宮崎郡田野町(現・宮崎市)出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は キムタク。現役時代はユーティリティープレイヤーとして活躍。引退後は読売ジャイアンツの内野守備走塁コーチに就任したが、クモ膜下出血のためシーズン中に急逝した。
来歴・人物
| 高校時代は捕手を務め、宮崎県立宮崎南高等学校では1年夏の甲子園で1勝、3年春には5打席連続三塁打、高校通算35本塁打の記録を持つ。 |
| 遠投120mの強肩捕手として鳴らしていた。 |
| 父親は旧・田野町の町議会議員を長く務めた地元の名士である |
日本ハム時代
| 1990年に捕手としてドラフト外で日本ハムファイターズに入団。 |
| しかし、開幕時の支配下登録の当時の60人枠から漏れ、一度は任意引退選手扱いとなったことがあった。 |
| 1992年に俊足と強肩を買われて外野手に転向 |
広島時代
| 1994年オフに長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。 |
| 移籍当初は打撃もかなり非力であった。 |
| 正田耕三の後釜候補として二塁手に就き、以後内野の守備も兼ねるようになる。 |
| 1996年オフにスイッチヒッターに転向し、1997年よりスイッチヒッターデビューした。 |
| 1997年秋季キャンプから故障がちな野村謙二郎の控えとして遊撃手に挑戦。 |
| 1998年、公式戦で遊撃を守ったほか代打の切り札として活躍、盗塁も14個記録してスーパーサブとしての役割を果たした。 |
| 1999年には一時捕手への再転向案が浮上し、公式戦でも4試合捕手を守った。 |
| この頃よりユーティリティープレイヤーとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている。 |
| 同年は広島市民球場のバックスクリーンにプロ初本塁打を放つなど課題のバッティングも向上し、2000年には1番打者として初の規定打席に到達したのに加え、打率2割8分8厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残すなど10年目にしてブレイクした。 |
| 以降は3年連続して130試合出場するなど、チームにとって欠かせない存在となる。 |
| 2001年は2番エディ・ディアスとのコンビでシーズン通じて1番打者で活躍し、自己最高の45打点をマークするも、打撃にパンチ力がついたためか引っ張り中心のスイングが目立つようになり、加えてリードオフマンとしては三振が多いのも課題で、最も打席数の多い1番という条件を考慮しても、129個もの三振を喫している。 |
| 首脳陣からもその点を指摘された事もあって、コンパクトかつ確実性を重視したバッティングスタイルを心掛けるようになる。 |
| 2002年は遊撃手・東出輝裕の故障により、それまで二塁・中堅での起用が主であったが、遊撃での起用も多くなった。 |
| 経験が少ないわりに堅実な守りを見せたが、打撃面での成績は前年を下回った。 |
| 2003年には東出が二塁へコンバートされることになったため、木村が遊撃へ回る案も出たが、アンディ・シーツの獲得により実行はされなかった。 |
| しかし、東出から二塁のポジションを奪還し、自己最高の13本塁打を放ったのに加え、センター前に渋く打ち返すシュアな打撃にも磨きがかかり、打率も2割8分を超えた。 |
| シーズン通して二塁を主に守っていたが、三塁や外野、シーツが退いた場合は遊撃の守備にもついた。 |
| 2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出(詳細は後述)。 |
| 10月9日の対横浜28回戦では三浦大輔の前に三重殺(記録はセンターフライ)を喫している。 |
| このシーズン以降は若手選手の急成長に加え、足や腰を故障するなどして、打撃や走塁で満足なプレーを残せず、スタメン出場の機会は著しく減少した。 |
| シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、手術を受けた。 |
| 2005年は開幕早々守備で魅せ、遊撃の尾形佳紀と不動の二遊間を構成するかと思われていたが、尾形の故障により結局固定されなかった。 |
| 打順は一定しないもののほぼ二塁・遊撃を守る。 |
| レギュラーに定着しかけていたが腰痛を発症し、8月上旬に離脱した。 |
| 1ヶ月後復帰したが、以後はスタメン起用は大幅に減った。 |
| 2006年シーズン、新たに監督へ就任したマーティ・ブラウンの若手起用の方針により開幕二軍スタートとなり、全く一軍での起用がなく、本人の希望もあって6月5日に山田真介外野手との交換トレードで巨人へ移籍。 |
| なお、広島時代の応援歌「足の速さは誰にも負けない風を切り走れ木村拓也」のフレーズは現在、同姓の木村昇吾に引き継がれている。 |
巨人時代
| 「出番を求めてトレードを志願したのに、トレード先が戦力の充実している巨人だった」と、トレードに懐疑的な考えを抱いていたが、移籍後間もない同年6月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で早くも一軍登録され、4回表に指名打者でスタメンだった原俊介の代打で初出場。 |
| 試合途中に李承燁の負傷退場もあり、三塁手・中堅手としても出場し、いきなりの活躍を見せる。 |
| シーズン終了後の契約更改では、代打出場での打率が高く代打の切り札として起用され、多くの選手の年俸が引き下げられる中、年俸5000万円(推定)から、200万円アップの5200万円(推定、本人は「旅費分くらいは上がった」と答えている)を勝ち取った。 |
| 2007年シーズンは、二塁手として加入した新外国人のルイス・ゴンザレスが開幕早々に離脱した事もあり、対右先発時のスタメン二塁手として活躍する。 |
| 慣れた二塁での起用だった事もあり、この年の100試合以上に出場した二塁手の中では関本健太郎の守備率.994に次ぐ守備率.993を記録し、守備能力の健在ぶりをアピールした。 |
| 2007年には偶に捕手練習をしていたこともあり、捕手2人制を敷いていた巨人では、正捕手の阿部慎之助が欠場や途中交代した際はブルペンに入って、捕手としての出場に備えた事が数試合あったと言う。 |
| 10月20日のクライマックスの日本シリーズ進出決定試合で日本シリーズ出場を決める最後の打者となったが、奇しくも前年、10月10日のセ・リーグ優勝決定試合でも最後の打者になっており、対戦相手も共に中日ドラゴンズであった。 |
| 上記のようにチームの穴を埋める活躍を見せたことで、2007年シーズン終了後には、自身プロ入り後最高年俸となる6500万円(推定)で更改し、会見では笑顔も見せた。 |
| また、原辰徳は別の席で「今年、タク(木村の愛称)がいなかったらと思うとゾッとしますね」とコメントしている。 |
| 2008年は開幕から2番、二塁に定着し打撃も好調で打率3割をキープし続け、中軸へのつなぎ役として重要な役割を果たした。 |
| 5月26日の対日本ハム戦では故障で欠場した小笠原道大に代わり3番でスタメン出場し、先制点となる本塁打を放ち勝利に貢献した。 |
| 試合後のヒーローインタビューでは「ジャイアンツは主力がいなければ弱いのかと思われたくない。 |
| 6月21日の対ソフトバンク戦では延長12回に自身5年ぶり、巨人移籍後初となる逆転サヨナラ打を放った。 |
| その日は、それまで3度のチャンスの打席で全て三振し、バットを叩きつけて悔しがったが、9回2死で大道典嘉が完投目前の杉内俊哉から同点本塁打を打って追い付いた後の逆転劇であった。 |
| ヒーローインタビューでは「前半にあれだけチャンスの場面で三振ばっかりしてたんで、申し訳なくて。 |
| 9月24日には広島市民球場でプロ野球251人目となる通算1000安打を達成するなど、シーズンを通じて正二塁手として定着し続けた。 |
| 規定打席こそ僅かに及ばなかったものの、自己最高の打率.293を残し、更には広島時代の2003年以来となるシーズン100安打、チームトップの26犠打をマークするなど巨人移籍後最高のシーズンとなった。 |
| 2009年は若手選手との競争に加えて、正二塁手候補として新たにエドガルド・アルフォンゾが入団。 |
| しかし、アルフォンゾや脇谷亮太の不振で、前年同様2番セカンドで木村が固定された。 |
| 交流戦に入ると、5月19日の北海道日本ハムファイターズ戦でシーズン第1号を含む3安打、6月16日の埼玉西武ライオンズ戦では石井一久から逆転3ラン本塁打を放つなど、復調の兆しを見せたものの、7月3日に一軍選手登録を抹消された。 |
| 9月4日の対ヤクルト戦(東京ドーム)では、捕手登録選手が全て交代してしまったため、10年振りに捕手として出場した(詳細は後述)。 |
| 10月10日、マツダスタジアムでの緒方孝市の引退試合では、8回からセンターの守備に就いていた緒方に向けて狙ったかのようにフライを放ち、アウトになったにもかかわらず笑顔をみせた。 |
| 日本シリーズでは第4戦において8番二塁で先発出場、5回に八木智哉から安打を放っている。 |
| 引退理由については詳細に語られなかったが、後に若手に出番を与えるために木村の出場機会が減ることを考慮した原がコーチ就任を要請し、木村がこれを受諾した上でのことであることが後に語られている。 |
巨人コーチ時代
| 公式戦開幕前の3月4日に開催された2010年度入団新人研修に講師として招聘され、新人選手を相手に、自らがドラフト外で入団してから引退するまでの19年間の選手生活について、「プロとしてやれた秘訣」「ハワイでのウインターリーグでイチローと同室になり、イチローの野球に対する姿勢を見て自分の甘さに気づいた」ことを語り、「この世界で食っていくためには、自分自身を知って可能性を探ることも大事だ」と述べて新人選手を鼓舞した |
突然の死
| 2010年4月2日17時40分頃、MAZDAZoom-Zoomスタジアム広島での対広島東洋カープ1回戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れ込んだ。 |
| 直ちにその場で関係者や両チームの選手、救急隊によってAEDで蘇生処置を受けた後、広島大学病院に緊急搬送された。 |
| 医師による検査などの結果、クモ膜下出血と診断され木村拓也コーチが倒れ病院に搬送…くも膜下出血と診断スポーツ報知2010年4月2日閲覧、そのまま緊急入院して治療を受けていたが、意識不明の重体から容態は改善することのないまま、2010年4月7日3時22分に入院先の病院で息を引き取った。 |
| 目立った前兆は無かったが、広島入り直前に関係者に対して「ひどい頭痛に見舞われて、2時間ぐらいしか眠れなかった |
| 生死をさまよう中、巨人の選手は木村の背番号「84」をつけて、巨人ファンは現役時代の応援歌を、広島ファンも広島在籍時の応援歌をそれぞれ熱唱し、「ガンバレ、ガンバレ、拓也」とエールを送り、復帰を祈っていた。 |
| 死去当日の4月7日は、開催されたプロ野球の全試合会場で半旗を掲揚したほか、試合前に黙祷が捧げられ、マツダスタジアムではかつて在籍した広島の松田元オーナーらにより、倒れた場所である本塁付近に献花が捧げられた(同球場では試合なし)。 |
| また、生前所属していた巨人・広島の各選手と関係者、当日に巨人の対戦相手で広島時代に同僚だった金本知憲、新井貴浩、岡義朗1軍野手チーフコーチ、広島の当日の対戦相手で、広島時代の同僚だった福地寿樹などが喪章を付けて試合を行った。 |
| 巨人はこの日の対阪神タイガース戦に勝利、小笠原道大は決勝本塁打(甲子園での本塁打は小笠原自身初)を放ち、木村に白星を捧げた。 |
| 同日の対広島東洋カープ戦は「追悼試合」として開催され、同世代で移籍組の谷佳知が、木村と同年(1994年)に広島へ入団した高橋建から代打逆転満塁本塁打(レギュラーシーズンでの満塁本塁打は初)を放ち、巨人の勝利に貢献。 |
| その後は、巨人軍と密接な関係にある日本テレビで追悼特番が組まれ、他のテレビ局や野球雑誌などでも2010年シーズン中は木村に関する話題が幾度も取り上げられた。 |
プレースタイル
| 2006年の代打成功率は4割を超え、かつて「代打の神様」と呼ばれた八木裕は「代打で結果を残すスイッチヒッターは怖い」と絶賛した。 |
| ドラフト外のプロ入りについて「今で言う育成選手ですよ」というコメントをしており、「後に続く人たち(育成選手を含む若手)の目標になりたい」と語っていた。 |
ユーティリティープレイヤー
| あくまでも統計上の数字にすぎないが、2007年の守備機会による二塁守備評価(→レンジファクター)は前任者である仁志敏久よりも高かった。 |
| そういった中でも、彼のユーティリティープレーヤーぶりを表す象徴的な出来事が、2004年のアテネオリンピック野球日本代表選出と、2009年9月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦17回戦での急造捕手としての出場である。 |
アテネオリンピック日本代表として
| アテネオリンピックでの野球日本代表は各チームから2名以内の選出という申し合わせ事項があり、広島からエースの黒田博樹と共に選出されたのは、当時連日スタメンに名を連ねていた前田智徳や新井貴浩ではなく、グレッグ・ラロッカや緒方孝市と交代でセカンドやセンターで出場する機会の多かった木村だった。 |
| アテネオリンピックの公式記録集では日本代表で唯一、ユーティリティープレーヤーである「U」の表記となっている。 |
| 試合出場は予選リーグの対ギリシャ戦(8回から谷佳知との交代でレフトを守る)と、3位決定戦となった対カナダ戦(8番レフトでフル出場)の2試合にとどまったが、試合での攻守のみならず、雑用係やブルペンキャッチャーとしても活躍し、長嶋茂雄からは「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と称えられた。 |
2009年9月4日、対ヤクルト17回戦
| 2009年9月4日、東京ドームで行われた対東京ヤクルトスワローズ17回戦。 |
| 巨人の先発はセス・グライシンガーのため、相性を考慮して先発捕手は鶴岡一成、正捕手の阿部慎之助は一塁手として先発出場した。 |
| 原辰徳は捕手起用のために木村を探したが、加藤が退場する前から出番を感じた木村は、捕り慣れていない変化球を捕球する練習をブルペンで行っていたというその時の事を原は「(木村に)逃げられたと思った」とコメントした。 |
| 木村は、何時でも、どのポジションでも出られるように5種類のグラブ(一塁手用、二塁手・遊撃手兼用、二塁手・遊撃手兼用予備、三塁手用、外野手用)を常に持ち歩いていたが、捕手用のミットは持っていなかったため、「一番柔らかかったから」として鶴岡のミットを、チェストプロテクターやレガースなどはブルペン捕手からそれぞれ借りたという「急造捕手」としてグラウンドへ出た。 |
| 本人も試合直後に「突貫工事」と振り返るほどだったが、12回表に救援登板した豊田清・藤田宗一・野間口貴彦とサイン交換をしっかり行いただし、投手にサインを送る際の合図は極めて単純で、コースに関するサインは決め忘れていたという。 |
| 、野間口には最後に左打者の内角をえぐる150km/h台の速球を放らせるなど、アグレッシブな配球を要求しながらも、3投手・自身ともミスを犯すことなく無失点で切り抜けることに成功(田中浩康を中飛、青木宣親を三振、飯原誉士には四球を与え、アーロン・ガイエルに右前打を浴びたが、松元ユウイチを三振に仕留めた)し、その役割を見事に果たした。 |
| 原はベンチを飛び出し、戻ってきた「捕手・木村拓」の肩を何度も叩いて活躍を讃えたほか、当日の試合で解説を担当した広島時代の恩師・山本浩二は「涙が出そうになった」と言ったほどである。 |
| ちなみに、直後のテレビ番組でのインタビューでは「(捕手は)もうやりたくない」と吐露したが、広島在籍時の監督である達川光男は、木村の性格からこの発言を「本職の捕手を立てるための気配り」と分析して賞賛した。 |
エピソード
| 広島時代には木村一喜が、巨人移籍後は木村正太が同チームに所属していたため、実況や場内アナウンスでは必ず「きむらたくや」と呼ばれ、スコアボードにも「木村拓」と表示された。 |
| 2人は関西テレビ・フジテレビ系『SMAP×SMAP』の特別企画『同学年』で対談したことがあり、対談の席で拓也が試合中にホームランを打つことを拓哉に約束。 |
| 収録日(2002年9月7日)に行われた巨人-広島戦(東京ドーム、当時は広島在籍)で、拓也が実際にホームランを放って拓哉が喜ぶという姿が見られた |
記録
| 初出場:1992年9月29日、対西武ライオンズ21回戦(東京ドーム)、7回裏に代打として出場、郭泰源に三振。 |
| 初本塁打:1999年6月1日、対ヤクルトスワローズ7回戦(山形県野球場)、1回裏にジェイソン・ハッカミーから中越ソロ。 |
| 1000試合出場:2004年7月16日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、9回表に倉義和の代打として出場し土肥義弘から左越2ラン ※史上396人目。 |
| 1000本安打:2008年9月24日、対広島東洋カープ23回戦(広島市民球場)、6回表に青木高広から左中間適時二塁打 ※史上251人目。 |
| 1500試合出場:2009年8月19日、対横浜ベイスターズ17回戦(東京ドーム)、8回裏に東野峻の代打として出場、加藤武治から二ゴロ ※史上167人目。 |
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捕手としてドラフト外で日本ハムファイターズ... |
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