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つながりの強いひと
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朱全忠
五代後梁(こうりょう)の初代皇帝。後梁の太祖と呼ばれる。諱は初め温であったが黄巣の乱の際の功で唐朝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に晃と改... |
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朱友貞
五代後梁の第3代皇帝。廟号や諡号は贈られていないため、後世の史家によって末帝と呼ばれている。 |
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朱存
朱存(しゅそん、生年不詳-没年不詳)は後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の次兄。 |
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末帝
中国の歴代王朝の最後の皇帝のうち、次の王朝から諡号・廟号などを授からなかった人物に対する便宜上の呼称。三国時代の呉の末帝(孫皓、在位:264年-280年)... |
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朱友文
後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の養子で、字は徳明。彼は威風凛々とした風貌の持ち主で、学問を好み、よく議論し、詩に長けていたと伝わる。 |
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李存勗
五代後唐の初代皇帝。テュルク(突厥)系沙陀族の出身。 |
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朱友寧
朱友寧(しゅゆうねい、生年不詳-916年)は後梁の皇族で、字は安仁、初代皇帝の朱全忠の甥。朱存の長子。朱友倫の兄。幼い頃より詩に長じ、兵法を好んだと伝... |
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朱友倫
朱友倫(しゅゆうりん、生年不詳-903年)は後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の甥。朱全忠の次兄である朗王の朱存の次男。兄に安王朱友寧がいる。新唐書による... |
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朱友裕
後梁の皇族で、初代皇帝朱全忠の長男。封号は郴(彬)王。字は瑞夫。生母の名は不詳。また、次弟は早世したために、名は不詳である。 |
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朱友敬
朱友敬(しゅゆうけい、生年不詳-915年)は後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の第八子で末子。『資治通鑑』や『五代会要』では友敬とあるが、正史では友孜とも... |
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朱友諒
朱友諒(しゅゆうりょう、生年不詳-921年)は後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の甥。 |
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李克用
中国唐末期の軍閥指導者。後唐の始祖。突厥沙陀部出身。太祖武帝と追号された。李存勗(荘宗)の父で、李嗣源(明宗)の仮父。唐末期に鴉軍と呼ばれる精鋭兵... |
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開平
五代十国時代の後梁において朱全忠の治世で用いられた元号。907年旧4月-911年旧4月。 |
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清水良太郎
日本の俳優である。東京都出身。岩倉高等学校商業科卒業。同校野球部出身。血液型O型。プロダクション尾木所属。父親はものまねタレントの清水アキラ。 |
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朱友恭
後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の仮子。本姓は李で、名は彦威。 |
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朱友謙
後梁の皇族で、初代皇帝の朱全忠の仮子。本姓は李で、名は簡。 |
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大江維時
平安時代の貴族、学者。伊予権守・大江千古の三男。官位は従三位・中納言、贈従二位。学者としても名が高く、醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇の侍読を務めた。... |
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張皇后
三国時代の蜀の後主劉禅の2番目の皇后。父は張飛。母は夏侯覇の従妹。諱は伝わっていない。劉禅の最初の皇后である敬哀皇后は姉(こちらも張皇后とも呼ばれる... |
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プロフィール
- 朱友珪とは
- 出生
- 即位
- 兄弟
- 義兄弟
- 伯父
- 朱全昱の子
- 朱存の子
- 元号
- 史料
朱友珪(しゅゆうけい)は五代後梁の第2代皇帝。彼のすぐ上の兄は早世したために名は不詳である(888年生まれは異説あり)。
出生
| 唐の光啓年間(885年-888年)、朱全忠が亳州に向かった際に召した妓娼が生んだ庶子である。 |
| 誕生した後に実父の朱温(全忠)に迎えられた友珪は907年に郢王に封じられた。 |
| 少年時代から素質が優れた長兄の朱友裕とよく比較されて、父から露骨に疎まれたという。 |
| そのために、彼は粗暴で残忍な性格に育ったと言われている。 |
| 後に父が仮子の博王・朱友文に帝位を譲ることを考慮し、実子の友珪を萊州刺史として左遷しようとした。 |
| この企てに反発した友珪は先手を打って、父を暗殺して帝位を奪い、その責任を全て朱友文に被せて妻子共々に処刑してしまう。 |
即位
| 父である先帝太祖を謀殺し、912年、帝位を簒奪した朱友珪であるが、亡父から疎まれていたことでもわかるように、人望や軍事的な素質にも欠け、かつ殺戮を好む悪評のある人物であった。 |
| 周囲の歓心を買うための人事や褒賞を行なうも、元来の荒淫の生活を送り続け、人々の不満を買った。 |
| このために禁軍の不満が爆発した。 |
| ついに913年に侍衛親軍都指揮使の袁象先らが宮中でクーデターを起こし、朱友珪は殺害され、異母弟の朱友貞が帝位を継ぐ事になった。 |
| 死後は追廃され、庶人とされた。 |
| 『旧五代史』及び『新五代史』にも本紀が立てられていない。 |
史料
| 『旧五代史』。 |
| (梁書巻十二宗室列伝)。 |
| 郢王友珪,小字遙喜,太祖第三子也。 |
| 母失其姓,本亳州營妓也。 |
| 唐光啟中,帝徇地亳州,召而侍寢。 |
| 月餘,將捨之而去,以娠告。 |
| 是時,元貞張后賢而有寵,帝素憚之,由是不果攜歸大梁,因留亳州,以別宅貯之。 |
| 及期,妓以生男來告。 |
| 帝喜,故字之曰遙喜。 |
| 開平四年十月,檢校司徒,充左右控鶴都指揮使,兼管四蕃將軍。 |
| 乾化元年,充諸軍都虞候。 |
| 二年,弒太祖篡位,均王以兵討之,自殺,追廢為庶人。 |
| 『新五代史』。 |
| (巻十三梁家人伝)。 |
| 嗚呼,春秋之法,是非與奪之際,難矣哉!或問:「梁太祖以臣弒君,友珪以子弒父,一也。 |
| 與弒即位,踰年改元。 |
| 春秋之法,皆以君書,而友珪不得列于本紀,何也?且父子之惡均,而奪其子,是與其父也,豈春秋之旨哉?」予應之曰:「梁事著矣!其父之惡,不待與奪其子而後彰,然末帝之志,不可以不伸也。 |
| 春秋之法,君弒而賊不討者,國之臣子任其責。 |
| 予於友珪之事,所以伸討賊者之志也。 |
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