| 南陽を攻めて抜いた。 |
| 618年、山南撫慰使の馬元規と冠軍で戦って敗れた。 |
| 残軍を糾合して再び勢力は復活し、衆二十万を号した。 |
| 朱粲は落とした州県の蔵の粟を食らい、転々として拠点が定まらなかった。 |
| その麾下の部衆もまともな生業をせず、もっぱら略奪をこととした。 |
| やがて軍中が飢え、死者が出るようになると、子どもを拉致しては蒸して食べるようになった。 |
| やがて朱粲の徒はカニバリズムの味を覚えてむしろ奨励するようになり、婦人や子どもを煮ては食べ、また税は諸城が痩せ細るまでに重く課した。 |
| 隋の著作佐郎の陸従典や通事舎人の顔愍楚が南陽に逃れてきたとき、朱粲は初めは賓客として扱い、後に両家ともに食いつくした。 |
| 近隣の諸城は恐れて、みな逃げ散った。 |
| 619年、顕州の楊士林と田瓚が起兵して朱粲を攻撃し、淮源で戦って朱粲は大敗した。 |
| 菊潭まで逃れて、唐に遣使して降伏を願い出た。 |
| 高祖李淵は前御史大夫の段確を散騎常侍として朱粲の応接をさせた。 |
| 段確は酔って、「君は人間をたくさん料理したそうだが、味のほうはどうかな?」と戯れに朱粲に訊いた。 |
| 朱粲は「酒を嗜んだ人間は、ちょうど粕漬けの豚に似た味がいたします」と答えた。 |
| 段確は驚き、「狂賊め、朝廷に帰順したのは一奴のみだった。 |
| また人を食らうか」と罵った。 |
| 朱粲は後難を恐れて段確を取り抑え、段確の従者数十人とともに煮て、側近たちにふるまった。 |
| そのまま菊潭を屠り、王世充のもとに逃れ、龍驤大将軍に任命された。 |
| 621年、李世民らが東都を平定すると、洛水の上で斬られた。 |
| 士庶は争ってその屍体に瓦礫を投げ打ち、瞬時のうちに墓の盛り土のようになったという。 |