| アメリカ仕込みの歌とダンスはもちろん、三味線やピアノを演奏しながら歌ったり、時には得意の玉乗りを生かしてステージを構成したりと、彼女の行動力と話題性は尽きることが無かった。 |
| 1975年3月28日、再びアメリカへ行く。 |
| 4月1日からは、半年の全米ワンマンツアー開始する。 |
| ニューオリンズ、プエルトリコ、ラスベガスなど各地で公演を行った。 |
| この際に、アメリカでザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソンなどいくつかの番組出演し、初日にはショーの模様がABCにて放送された。 |
| 同じ月に発売された「AHSO!」では、自身が三味線を演奏しながら歌い、「AHSO!」の掛け声とともに、ショーでは大変な熱気に包まれ、好評だった。 |
| 6月には、彼女のショーを見たタワー・オブ・パワー側がジョイントレコーディングを企画する。 |
| ロサンゼルスのワーナースタジオで彼らの作品を中心に数回に亙る慎重な打ち合わせが行われた結果、『愛のめざめ''I'mNotALittleGirlAnymore''』と、『絶体絶命 ''BuringMyBridgesBehindMe''』の2曲に決定。 |
| 10月から約1箇月半を費やしてレコーディングされた。 |
| 日本とアメリカでそれぞれリリース。 |
| 1976年3月、フラミンゴ・ラスベガスでの彼女のショーを見たアメリカ人コメディアン、レイカルド・デュオからカーネギー・ホール出演を持ちかけられる。 |
| 6月19日、カーネギーホール(日本人女性として初出演)でのデュオとのジョイントリサイタル。 |
| 大ホールでのこの公演は超満員となり、大成功を収めた。 |
| 9月、カーネギー・ホールに出演して以来一緒に活動していた''HerveyTruitt''らバンドメンバーと共に帰国し、日本公演を各地で行った。 |
| この公演以来、「海外に通用する日本人アーティスト」として彼女を取り上げた、キョードー東京の企画によって公演を行うようになる。 |
| そして12月、再びアメリカへ向かう。 |
| 1977年6月23日より東京から全国縦断リサイタル。 |
| 6月、彼女は来日していたポール・アンカに直接アタックする。 |
| ポールはLPに収録されていたマイ・ウェイを聴いて大絶賛し、4曲歌をプレゼントした。 |
| ちなみにその中の1曲が、シングル発売された「ジョーのダイヤモンド」である。 |
| 1978年に行われた第7回東京音楽祭、国内大会にはこの歌で出場しゴールデン・スター賞、作曲賞を受賞した。 |
| 同年9月には再び渡米し、バーブラ・ストライサンド、フランク・シナトラ、ダイアナ・ロスら大物歌手を手掛け、ヒット曲を持つUSAトッププロデューサー、DonCostaのプロデュースによるアルバムの打ち合わせを行い、10月よりレコーディングが行われた。 |
| このアルバム制作のために、ポールはオリジナル曲15曲をプレゼントした。 |
| 12月に「''NICETOBESINGING''」のタイトルでリリースされた。 |
| またこのアルバムに先駆けて10月にはトヨタ新チェイサーのCMソング「サムライ・ニッポン」を発売。 |
| ちなみにこのアルバムには「''SAMURAINIPPON''」が収録されている。 |
| 11月にはレコーディングを完了し、この新曲のプロモートのためにハリウッドで行ったオーディションで選び抜いた4名のダンサーと共に帰国。 |
| テレビ、ステージで活躍した。 |
| インパクトのある題名、CMと何かと話題を集めた作品になった。 |
| 1979年ソウル国際音楽祭に日本代表で出場。 |
| 前年に出したLPに収録されている「''IGETOFFONYOU''」などを歌った。 |
| ちなみにこの模様を収録したLPが韓国のみで発売された。 |
| バックにはレニー・ホワイトが参加した。 |
| また久しぶりに日本を拠点に活動し、1年間をかけ徹底的に全国くまなくコンサートを各地で開き、大盛況。 |
| 12月10日、初のベストアルバム発売(アメリカでも)し、ワーナーとの契約終了。 |
| ちなみにこの月に東京厚生年金会館で行われたリサイタルは録音されたが、LP,CD化されておらず、幻の音源となっている。 |
| 1980年はレコード会社が安定しないままほとんどアメリカで活動していたため、日本公演は行われたが新曲発売は無かった。 |
| 1981年RCAレコードへ移籍。 |
| 1月8日より移籍後初のリサイタルを東京メルパルクホールから行う。 |