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太宗は、李泰が士を好んで文学を愛したので、特に王府に文学館を置き、学士を任用することを許した。
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また李泰の腰周りが大きく、歩行も困難であったので、輿に乗って参朝することを許可した。
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638年、司馬の蘇勗が『括地志』を編纂するように勧めたため、そこで李泰は蕭徳言・顧胤・蒋亜卿・謝偃らを召し出して編纂を進めさせた。
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641年に五百五十篇の大部として完成した。
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ときに皇太子の李承乾は素行が悪く、廃嫡されるのを恐れ、太宗に偏愛されている李泰を敵視した。
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褚遂良や魏徴は李泰を特別扱いしないように太宗を諫めた。
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しかし時おそく李承乾と李泰は宮廷内にそれぞれの朋党を構えていた。
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李泰は柴令武・房遺愛を腹心とし、韋挺・杜楚客に王府の事務を取り仕切らせた。
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643年、李承乾が兵変を謀って失敗すると、岑文本・劉洎らが李泰を皇太子にするよう請願した。
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それに対して長孫無忌は晋王李治を推した。
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太宗が李承乾に会って譴責すると、李承乾は「わたしは貴くも太子となったのですから、それ以上何を望みましょう。
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ただ泰が謀略を仕掛けたので、朝臣とともに自分の安全を図っただけです」と言った。
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太宗は、「そうだな、もし泰を太子に立てれば、承乾も治もともに死ぬだろう。
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治を立てれば、泰も承乾も無事で済むだろう」と言った。
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そこで太宗は、李泰を将作監に幽閉させ、雍州牧・相州都督・左武候大将軍の任を解き、東萊王に降格させた。
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皇太子位には李治を立てた。
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李泰は間もなく順陽王に改封され、均州の鄖郷に住んだ。
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647年、濮王に進んだ。
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649年、高宗が即位すると、王府を開設して属僚を置いた。
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652年、鄖郷で亡くなり、太尉・雍州牧の位を追贈された。
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諡を恭といった。