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つながりの強いひと
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鄭樵
中国の南宋代の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、福建の莆田県の出身、夾漈先生と号す。若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収... |
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呂文煥
南宋末期の軍人。長江流域で勢力を誇った軍閥の頭領で、兄に同じく南宋に仕えて将軍となった呂文徳がいる。1268年から南宋とモンゴルの最前線である襄陽の守... |
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蔡京
北宋末の政治家、宰相、書家。字は元長。興化郡仙游県(福建省仙游県)の人。行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかった... |
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阿骨打
阿骨打(あくだ、アグダ)は金の初代皇帝(在位1115年1月28日-1123年9月19日)。女真族完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では女真名である阿骨打(ア... |
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寛信
平安時代後期の真言宗の僧。父は参議藤原為房。勧修寺法務とも称される。東大寺覚樹に三論教学を学び、勧修寺厳覚から真言宗小野流の奥義を受けた。1110年(... |
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辛棄疾
辛棄疾(しんきしつ、1140年(金の天眷3年・南宋の紹興10年)—1207年(開禧4年))は政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市... |
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覚性入道親王
平安時代後期の皇族・僧・歌人。俗名は本仁親王。父は鳥羽天皇。母は藤原公実の娘待賢門院藤原璋子。真言宗仁和寺の第5世門跡。紫金台寺御室・泉殿御室とも称... |
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王安石
北宋の政治家・詩人・文章家。字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党のリーダー。神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して新法... |
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平忠盛
平安時代末期の武将。平清盛の父。父は平正盛。烏帽子親は義兄の源義忠。伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力... |
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劉敞
劉敞(りゅうしょう、LiuChang天禧3年(1019年)-熙寧元年4月8日(1068年5月11日))は北宋の仁宗朝後半と英宗朝に活躍した経学者・歴史学者・政治家(官僚)... |
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朱子
朱子(しゅし 1130年10月18日(建炎4年9月15日)-1200年4月23日(慶元6年3月9日))は中国宋代の儒学者。姓は朱、諱は熹(き)、字は元晦または仲晦。号は晦... |
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賀国強
賀国強(がこくきょう、ホー・グオチャン、1943年10月-)は中華人民共和国の政治家。第17期中国共産党中央政治局常務委員、中国共産党中央規律検査委員会書記... |
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杜甫
中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。中国文学史上最高... |
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王士禎
王士禎(おうしてい、WángShìzhēn、1634年(崇禎7年)-1711年(康熙50年))は中国清朝初期の詩人、文学者。山東省新城県の人。字は貽上、号は阮亭、また漁洋... |
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羅幹
羅幹(らかん)は中華人民共和国の政治家。中共中央政治局常務委員(序列第9位)、中央政法委員会書記。1953年に北京鉄鋼工業学院圧力加工学部を経て1954年か... |
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海陵王
金の第4代皇帝(在位:1150年1月9日-1161年12月15日)。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・宗幹(斡本=オベン)の次男。殺害の後に廃位され、海陵郡王に落... |
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平家貞
平安時代後期の武将。伊賀を本拠とする平氏譜代の有力家人である。平忠盛・平清盛の二代に渡って仕え、「一ノ郎等」(『愚管抄』)といわれた。 |
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頼豪
平安時代中期の天台宗の僧。父は伊賀守藤原有家。園城寺(三井寺)の心誉に師事し、円行から法を受け、実相院に住した。修法の効験で知られ、1074年(承保元... |
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太田省吾
日本の劇作家、演出家。中国済南市に生まれる。学習院大学政経学部中退。岸田國士戯曲賞の審査員などを務めた演劇界の重鎮であるが、劇作家としてよりむしろ... |
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勝覚
平安時代後期の真言宗の僧。父は源俊房。立川流の祖仁寛の兄。醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授された。醍醐寺... |
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プロフィール
李清照(りせいしょう、1084年-1153年)は、北宋末期・南宋初期の詩人。斉州章丘(現在の山東省済南市の県級市章丘市)の人。夫は政治家の趙明誠。中国史上を代表する女流詞人として知られている。
生涯
| 18歳の時、当時太学の生徒であった3歳年上の夫と知り合って結婚する。 |
| 本や古器物をこよなく愛した二人は衣類を質に入れては気に入った本などを購入したと言われるほどの蔵書家であった。 |
| 後に清照は夫の『金石録』編纂を手伝う事になる。 |
| ところが、母の葬儀のために夫婦揃って帰郷の途中、靖康の変が発生して夫の任地も金軍の攻撃を受けて蔵十数個に分散されていた蔵書類は悉く焼かれてしまう。 |
| 更に1129年に臨安の宮廷に召されていた夫が48歳で急死、清照とともに残された車十数台分の蔵書の残りも金軍の兵火と流民の略奪によって悉く失われた。 |
| 更に再婚した夫に虐待された末に離別して流浪の生涯を送る中で優れた詞を多く生み出したと言う。 |
作品について
| 李清照は数々の詞、詩、文章を書き残している。 |
| 中国の人民文学出版社から出版された『李清照集校注』(王学初)には彼女が残した詞、詩、文のほとんどを網羅している徐培均『李清照その人と文学』(山田郁平訳、日中出版)。 |
| 宋代を代表する儒学者・朱熹は、李清照の詞作について「本朝の婦人の文を能くするは、只李易安「易安」は李清照のこと。 |
| 彼女自らが「易安居士」と号したことからと魏夫人「魏婦人」は曾布(徽宗皇帝の時代の宰相)の妻。 |
| 有るのみ」朱子語類巻百四十と称えている。 |
| また宋代の文人・王灼は「才力華瞻にして、前輩に逼り近づき、士大夫の中に在りても已に多くを得ず。 |
| 若し本朝の婦人ならば、当に文采第一と推すべし」『碧鶏漫志』と記している。 |
| 清代には李清照は婉約派という宋詞の流派の宗匠であるとされ王士禎「婉約は易安を以て宗と為し」詞壇における地位は生前以上に確かなものとなっていった。 |
| 現代にあっては中国現代を代表する文学者・鄭振鐸をして「李清照は宋代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女流詩人である」『挿図本中国文学史』と言わしめるほどである。 |
| ただし、動乱の真っただ中を生きたことなどもあって、作品の大部分は散逸し、資料は少ないという。 |
| 日本においても、李清照への評価は高く、漢文学の女性翻訳家として著名な花崎采琰(子は作家花崎皋平)は述べている。 |
| 「李清照は宋代が生んだ女詞人の至宝である。 |
| 彼女の才能は全く男女の別を思はせない完璧のものであって、南宋十傑中に指折られる大家である。 |
| 男では李後主、女では李清照、と対照されてゐる。 |
| 李白を加へて詞家の三李と認められてゐる」『中国の女詩人』(西田書店、1985年)、他に『晩唐五代流行歌謡』がある。 |
| 中田勇次郎は花崎采琰の編・訳による詞集『新譯 漱玉詞』(新樹社、1958年)の序文で「詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、李清照の詞はさらにそのうえに理智のかがやきがそえられて、清新な感覚のうちに、宋詞のもっともよい特質であるさびしさとほそみが、本格的なすがたをよそおってつつまれている點では宋詞のもっともよい例であるといっても過言ではない」と称賛している。 |
参考文献
| 原田憲雄『魅惑の詞人 李清照』(朋友書店、2001年)、ISBN978-4-89281-080-0。 |
| 徐培均『李清照-その人と文学』(山田郁平訳、日中出版、1997年)、ISBN4-8175-1228-8。 |
| 興膳宏『中国名文選』(岩波新書、2008年)、ISBN4-00-431113-6 最終章で「李清照」の足跡と文業をあつかう。 |
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1129年
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臨安の宮廷に召されていた夫が48歳で急死、清... |
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