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つながりの強いひと
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呉三桂
中国明末、清初の軍人。清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の... |
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小前亮
歴史学者、作家。島根県生まれ。東京大学大学院修士課程修了。専攻は中央アジア・イスラーム史。在学中より歴史コラムの執筆を始める。らいとすたっふに入社... |
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崇禎帝
明朝第17代の皇帝にして最後の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(同隆武帝による)、懐宗... |
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張献忠
明代末期の農民反乱軍の指導者。字は秉忠、号は敬軒。陝西延安衛柳樹澗堡(現在の定辺県郝灘郷劉渠村)の出身。もとは軍籍にあったが法を犯して除籍された。... |
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ドルゴン
清初の皇族。ヌルハチの14子。睿親王。順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮した。 |
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朱元璋
中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武... |
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李舜臣
文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、)。死後に贈られた謚は忠武公()。文禄・慶長の役においては、朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った。死後から2... |
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万暦帝
明の第14代皇帝。姓は朱。諱は翊鈞(よくきん)。廟号は神宗。日本では治世時の元号を取って万暦帝と呼ぶことが一般的。諡は範天合道哲肅敦簡光文章武安仁止... |
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ヌルハチ
中国後金の創始者(在位:1616年2月17日-1626年9月30日)。清の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・... |
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李世民
李世民 小前亮/著 出版社名 : 講談社 出版年月 : 2005年6月 ISBNコード : 978-4--5
( 4--2 ) 税込価格 : 2,310円 頁数・縦 : 534P 20... |
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陳円円
中国明代末期の美妓。明末清初に活躍した軍閥武将呉三桂の妾(側室)。本姓は&37026;、名は&27781;。字は&30073;芬。叛将呉三桂の心を奪った傾国の美女といわ... |
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李厳
後漢末期から三国時代の政治家・武将。荊州南陽郡の人。字は正方。後に“李平”と改名。子に李豊。『三国志』蜀志に伝がある。荊州の劉表、益州の劉璋に身を寄... |
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順治帝
中国清王朝の第3代皇帝(在位1643年10月8日-1661年2月5日)。姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と... |
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武則天
唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた(在位:690年10月16日-705年2月22日)。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多... |
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ホンタイジ
清の第2代皇帝(在位:1626年10月20日-1643年9月21日)。君主としての称号は満州語で「スレ・ハン」、モンゴル語で「セチェン・ハーン」。皇太極は皇太子、黄... |
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陳舜臣
推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。神戸市... |
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鄭成功
鄭成功(ていせいこう、チェンチェンコン、、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日)-大明永暦十六年5月8日(1662年6月23日))は中国明代の軍人、政... |
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田中芳樹
田中芳樹(たなかよしき、1952年10月22日-)は日本の作家。本名は田中美樹(たなかよしき)。日本SF作家クラブに所属している。 |
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牛金
中国、後漢末期から三国時代の魏に仕えた軍人。 |
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高迎祥
引き継ぐ者
明代末期の民衆反乱の初期の指導者。陝西安塞出身。王嘉胤が起こした反乱に参加し、崇禎3年(1630年)には方将となり、翌崇禎4年(1631年)に王嘉胤が殺され... |
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プロフィール
- 李自成とは
- 農民反乱
- 新順王
- 死後
- 逸話
- 伝記資料
- 関連書籍
- 関連項目
李自成(りじせい)は、中国明末の農民反乱指導者。延安府米脂県(現在の陝西省延安)出身。明に対して 李自成の乱と呼ばれる反乱を起こし、明を滅ぼしてから清が北京を占領するまでの41日間と極めて短期間ながら順(大順)王朝を建国し、皇帝を称していた。
農民反乱
| 明は駅站と呼ばれる駅伝制度を敷いていたが、崇禎帝により廃止された。 |
| 経費節減が目的であったが、駅站廃止によって失業した者たちは路頭に迷い、農民反乱に参加することになる。 |
| 李自成もその中の一人であった。 |
| 1627年・1628年に陝西で起きた大干ばつをきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加した。 |
| その間の明政府は満州族対策に追われて、満足に反乱対策を行えず、これに乗じて反乱軍は勢力を拡大し、山西を制圧し、北直隷(河北省)まで迫るほどになった。 |
| その後、政府軍の反撃により押し返され、河南へと移動する。 |
| この時期の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などが居た。 |
| 李自成はまだ高迎祥配下の武将の一人に過ぎなかったが、この時の作戦会議「滎陽大会」で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、更に翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の後継者となり、高迎祥が名乗っていた闖王(ちんおう)の称号を名乗り、反乱軍の首魁となった『明末農民軍名号考録』四川省社会科学院出版社、1984年、書号11316・9(「滎陽大会」は清初の本で創作された作り話で実際には存在しなかったとされている)。 |
| しかし高迎祥が死んだことにより、反乱軍の勢いは弱まっており、李自成たちは官軍の追及を逃れて陝西省へ退却し、更に山野に隠れざるを得なくなった。 |
| このことで李自成軍に対して楽観視した官軍は湖広(湖北省・湖南省)へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落とした。 |
| この地で挙人(科挙の郷試(地方試験)を合格して、会試(中央試験)には合格していない者の李巌と出会い、「均田」(農民への土地分配)「免糧」(数年の間の税免除)の二つのスローガンを李巌から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がった(李巌も今日では清初の小説で創作された架空の人物とされている)。 |
| また、牛金星ら知識人を陣営に取り込んでいく事になる。 |
| この勢いに乗って、1641年には洛陽を陥落させ、この地に居た万暦帝の第3子の福王・朱常洵を処刑した。 |
| 福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢により多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのである。 |
新順王
| 更に開封を落とし、1643年に襄陽にて大元帥、続いて新順王と名乗って六部などの国家としての制度を整え、更に西安を陥落させる。 |
| 翌1644年に西安に入った李自成は国号を順(大順)、元号を永昌と定め、この地で順王を称する。 |
| 2月には李自成軍は北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させ、明を滅ぼした。 |
| 李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで明の崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。 |
| 北京に入城した李自成たちはここでいよいよ中国全土の皇帝となるための諸手続きや儀式の用意を始めた。 |
| 入城後の李自成軍は殺人鬼として有名な張献忠の軍が合流したこともあり、厳正であった軍規もすっかり緩み、略奪・強姦・殺人が横行していた。 |
| その頃、東北地方では満州族(1636年から清となる)に対して前線の拠点である山海関を守っていた呉三桂が清に対して投降していた。 |
| その後、李自成軍はドルゴンと呉三桂率いる清と明の遺臣の連合軍と激突し、大敗。 |
| 慌てて北京を逃げ出した。 |
| 実に入城から40日と言う短い天下であった。 |
| さらに李巌と牛金星の確執から牛金星が李巌を殺害して清軍に投降李巌は架空の人物。 |
| 牛金星は失脚したものの、そのまま李自成軍には留まっていたとする説もあるしてしまう。 |
| その後西安に逃れた李自成軍だが、ここもすぐに放棄して通城(現在の湖北省)に逃れるが、李自成は九宮山にて現地の農民の自警団により殺される(1645年)。 |
| ただし、僧侶に変装して1674年まで生き延びたと言う伝説もある(なお、生き残った李自成軍の残党は、南明の傘下に入って清朝への抵抗を続けたが、1664年までに全てが滅ぼされここに完全に滅亡した)。 |
死後
| 清は北京に入った後は崇禎帝の葬儀を手厚く営み、李自成によって殺された崇禎帝の仇を取るとの名目を持って自らの中国支配を正当化した。 |
| このために清代を通じて李自成は反逆者とされ、辛亥革命によって清が滅亡した後もしばらくは流賊の頭とみる低い評価が続いたが、1944年になって郭沫若が李自成を起義軍として再評価する論を唱えた。 |
| 毛沢東も当初は流賊説を取っていたが、郭沫若の論を承けて李自成を農民反乱指導者として評価する見解を出したことから、李自成の再評価と順朝の研究が進められるようになった。 |
逸話
| 現在でも北京市民の間に伝わる李自成にまつわる逸話がある。 |
| 李自成は北京入城後に皇帝に即位したが、餃子を毎日のように食べたという。 |
| 「餃」の文字は「交」に通じ、「末永く」という意味を持っていた。 |
| そのため歴代皇帝たちは社稷が「細く長く」続くよう、春節にしか餃子を食べなかった。 |
| しかし李自成はそのしきたりを破り、毎日餃子を食べ続けたため、順朝はすぐに滅んでしまった。 |
関連書籍
| 姚雪垠著、陳舜臣・陳謙臣共訳、『叛旗小説李自成 上・下』(講談社、1982年 のち徳間文庫、1992年)。 |
関連項目
| 明季北略:明朝崩壊の過程を記した歴史書。 |
| 李自成の北京入城について詳しい。 |
| zh-min-nan:LíChū-sêng。 |
| zh-yue:李自成。 |
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1628年
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陝西で起きた大干ばつをきっかけに反乱が頻発... |
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1641年
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洛陽を陥落させ、この地に居た万暦帝の第3子... |
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