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プロフィール
李陸史(イ・ユクサ、りりくし、YiYuksa, 1904年5月18日~1944年1月16日)は韓国の抗日詩人。本名は 李源三、ペンネームの李陸史(イ・ユクサ)は初めて逮捕された時の囚人番号が264(韓国語でイ・ユク・サ)だったことにちなむ。日本、中国の北京大学に留学したエリトだったが、武装独立運動を行なっていた義烈団や朝鮮義勇軍などに参加し独立軍の資金募金、暗殺や 爆破工作などのさまざまな秘密工作に関与した。しかし抗日独立運動に参加しながらも、詩作においても旺盛な活動と傑作を成し遂げていた。代表詩集「陸史詩集」。
年譜
| 1904年(0歳) 5月18日慶尚北道安東市陶山面ウォンチョン里(当時原寸洞)881番地で父・李家鎬朝鮮の大儒学者である退渓李滉の13代の孫)と母・許吉の間に次男として生まれる,幼名はワンロック(源禄),二番目の名前がウォンサム(源三),字は台卿。 |
| 1909年(7歳) 祖父、痴軒・李中稙から小学手習い。 |
| 1916年(12歳) 祖父別世,家勢が傾き始める,漢文学修学,この頃普文義塾で修学。 |
| 1919年(15歳) 陶山公立初等学校(普文義塾を公立で改編)第1回卒業。 |
| 1920年(16歳) 安東市に引っ越し,親を含めた家族皆大邱(南山洞62番地)に引っ越し,。 |
| 1921年(17歳) 霊泉郡華北面烏梧洞の安庸洛の娘イルヤン(一陽)と結婚,妻家に近い白鶴学校(1921設立)で修学(補習科過程-1922年まで)。 |
| 1923年(19歳) 白鶴学校で教鞭を取る(9ケ月の間)。 |
| 1924年(20歳) 4月学期に合わせて日本留学。 |
| 1925年(21歳) 1月に帰国,大邱朝陽会館を中心に活動,イ・チョンギなどと語らって北京に赴く。 |
| 1926年(22歳) 北京で修学,広東省広州の中山大学で後学期修学。 |
| 1927年(23歳) 中山大学在学中、夏に帰国,チャン・シンホン義挙事件(10月18日朝鮮銀行大邱支店爆破事件)に連座して拘束される。 |
| 1929年,(25歳) 5月に釈放(12月に無実で終決).中外日報記者。 |
| 1930年(26歳) 1月3日最初の詩「言葉」を『朝鮮日報』に発表(李活名),息子ドンユン(東胤生まれる.(満2歳に死亡)10月大邱二六四の名で「大邱社会団体概観」発表。 |
| 1931年(27歳) 1月に大邱檄文事件で拘束,3月釈放,頻繁に満洲通い.3ケ月止まり年末に帰国.8月朝鮮日報社に転職,大邱支局勤務.。 |
| 1932年(28歳) 北京,天津に滞在.上海で魯迅と出会う.北京から南京に移動して,10月10日に南京近郊に開学した朝鮮革命軍事政治学校1期生として入校。 |
| 1933年(29歳) 4月20日1期生で卒業(26人),卒業式に演劇公演,5月に上海に移動,7月ソウルに潜入。 |
| 1934年(30歳) 4月に『大衆』創刊号に評論 |
| 1935年(31歳) シン・ソクチョと出会って親交,茶山逝世99週年記念{茶山文集}刊行に参加,新朝鮮社の{新朝鮮)編集に参加,本格的に詩を発表.。 |
| 1936年(32歳) 7月浦項で休養。 |
| 1937年(33歳) ソウル明倫洞に居住,評論の性格変わる(時事から文学に)。 |
| 1938年(34歳) シン・ソクチョ、チェヨン、イ・ミョンリョンなどと慶州旅行,秋にシン・ソクチョと扶余観覧,11月父の回甲宴。 |
| 1939年(35歳) 鍾岩洞引っ越し,「青葡萄」発表。 |
| 1940年(36歳) 詩「絶頂」,「狂人の太陽」など発表。 |
| 1941年(37歳) 2月娘オックビ(沃非)生まれる.聖母病院入院,父親の喪。 |
| 1942年(38歳) 2月聖母病院退院,母親と長兄死去し、安東ウォンチョンの本家に帰郷,7月ソウルのスユ里居住。 |
| 1943年(39歳) 1月親友に北京行きを明らかにする,ハングル使用規制受けると一時、漢詩だけ発表.4月北京に行く,重慶と延安行及び国内武器搬入計画立てる.7月母親と長兄の一周忌に参加しに帰国,晩秋に検挙され,北京に移送される,駐北京日本総領事館警察に拘禁されたものと推定される。 |
| 1944年(40歳) 1月16日夜明け,北京駐在日本総領事館監獄で虐殺され殉国,同志であると同時に親戚でもあるイ・ビョンフィ(女)によって死体引き取られ、葬礼行われる。 |
| 1946年 陸史詩集刊行。 |
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