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つながりの強いひと
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護良親王
鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。また公家の藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良... |
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後醍醐天皇
第96代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日)-延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。諱は尊治(たかはる)。 |
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松岡映丘
大正・昭和初期にかけ活動した日本画家。本名は輝夫。 |
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松本楓湖
松本楓湖(まつもとふうこ、天保11年9月14日(1840年10月9日)-大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家である。 |
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建武
後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年-56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。この元号は、漢王朝を再興した際に初め... |
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新田義貞
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した御家人・武将。正式な名は源義貞(みなもとのよしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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楠木正成
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍... |
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二階堂貞藤
鎌倉時代後期の御家人。二階堂行藤の子。法名は道蘊。出羽守。子に兼藤、知藤、兼義がいる。甲斐国山梨郡牧庄主で、嘉元3年(1305年)には鎌倉から夢窓疎石を... |
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北畠顕家
南北朝時代の公家・武将。北畠家は村上源氏の庶流。准大臣北畠親房の長男。従二位・権中納言。贈従一位・左大臣。 |
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村上義清
戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信... |
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正慶
日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝... |
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楠木正行
楠木正行(くすのきまさつら)は南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。前名は正... |
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小林古径
大正~昭和期の日本画家。1883年(明治16年)、新潟県高田(現上越市)に生まれる。1899年(明治32年)、上京して梶田半古に日本画を学び、39歳の1922年(大... |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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片岡八郎
達磨寺本堂西側にある
片岡八郎公の顕彰碑
達磨寺の本堂の西側に「石心松操」と彫られた大きな碑がたっています。これは、建武の新政を行った後醍醐天... |
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加藤清正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。その後も各地を転戦し... |
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児島高徳
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、備前国児島郡出身の武将。軍記物語の『太平記』に登場する。通称は、三郎、備後三郎で、備後守とも呼ばれるこ... |
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名和長年
日本の南北朝時代の武将。伯耆守。又太郎長高。父は名和行高。子に義高・基長・高光、一族に石山城(岡山城)を最初に築いた上神高直がいる。伯耆(キ)守で... |
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プロフィール
- 村上義光とは
- 『太平記』での活躍
- 『太平記』巻第五 大塔宮熊野落事
- 『太平記』巻第七 吉野城軍事
- 墓所
村上義光(むらかみよしてる、生年不詳-元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年4月15日))は、鎌倉時代末期の武将。村上信泰の子。兄弟に国信、信貞らがあり、子に朝日、義隆らがある。官位は従五位下、右馬権頭。通称は彦四郎。諱は義日とも記される。大塔宮 護良親王( 後醍醐天皇の皇子)の忠臣として知られる。
『太平記』での活躍
| 『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した9名の1人として登場する。 |
『太平記』巻第五 大塔宮熊野落事
| 道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。 |
| そこで供奉した9名の1人、赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。 |
| 殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。 |
| しかし、供奉した9名の1人、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。 |
| 御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。 |
| 遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。 |
| 義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、4、5丈(1丈約3メートルなので、12、15メートル)ほどかなたに投げつけた。 |
| 義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついた。 |
| 護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。 |
| 注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。 |
| 陳平は漢王朝の功臣。 |
『太平記』巻第七 吉野城軍事
| 元弘3年(1333年)、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。 |
| 護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。 |
| 親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。 |
| 義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。 |
| この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。 |
| なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。 |
| その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。 |
墓所
| 村上義光の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約1.4kmの場所にある。 |
| 案内板によると身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。 |
| 墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が天明3年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。 |
| なお、子の義隆の墓は蔵王堂より南1.5km、勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道257号線沿いにある。 |
| ファイル:MurakamiYoshiteruNoHaka100602.jpg|村上義光の墓。 |
| ファイル:MurakamiYoshitakaNoHaka100602.jpg|村上義隆の墓。 |
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1333年
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村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳元弘... |
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1783年
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建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある |
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村上義光さんについてのひとこと紹介
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