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つながりの強いひと
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河野洋平
日本の政治家。衆議院議員(14期)、衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第122・127・128・129・130代)、内閣官房長官... |
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橋本龍太郎
日本の政治家。岡山県総社市名誉市民。位階勲等は正二位大勲位。愛称は橋龍(はしりゅう)。衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、... |
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中曽根康弘
日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。財団法人世界平和研究所会長。中曾根康弘とも表記される。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運... |
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佐高信
佐高信(さたかまこと、1945年1月19日-)は日本の評論家、東北公益文科大学客員教授。週刊金曜日編集委員・株式会社金曜日前代表取締役社長。 |
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武村正義
日本の自治官僚、政治家。八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。政治引退後を主に、龍谷... |
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小渕恵三
日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。学位は政治学修士(早稲田大学)。衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣... |
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片山哲
日本の弁護士、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(12期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本... |
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羽田孜
日本の政治家。衆議院議員(14期)。民主党最高顧問。元内閣総理大臣(第80代)。(在任期間:1994年4月28日-6月30日)。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵... |
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後藤田正晴
日本の政治家、警察官僚。衆議院議員(当選7回)。警察庁長官、中曽根康弘内閣の内閣官房長官、行政管理庁長官、総務庁長官、宮澤喜一内閣の副総理、法務大臣... |
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海部俊樹
日本の政治家。財団法人日本ソフトテニス連盟会長、社団法人大正琴協会理事長、特定非営利活動法人日本ティーボール協会会長。衆議院議員(16期)、文部大臣... |
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森喜朗
日本の政治家。衆議院議員。文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、自由民主党総裁(第19代)、内閣総理大臣(第85代・第86代)... |
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田母神俊雄
日本の軍事評論家、頑張れ日本!全国行動委員会代表、予備役ブルーリボンの会顧問。元航空自衛官・航空幕僚長。 |
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竹下登
日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。島根県議会議員、衆議院議員(14期)、内閣官房長官(第35・38代)、建設大臣(第38代)、大蔵大臣(第84・86・8... |
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石原信雄
石原信雄(いしはらのぶお、1926年11月24日-)は日本の官僚。元内閣官房副長官(在任1987年-1995年)。勲一等。長男は同じく東京大学法学部を卒業し、大蔵省... |
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野中広務
日本の国鉄職員、政治家、福祉事業家。勲等は勲一等。報道や自著などでは新字体で野中広務(のなかひろむ)と表記されることが多い。社会福祉法人京都太陽の... |
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細川護熙
日本の政治家、陶芸家。公益財団法人永青文庫理事長、東北芸術工科大学学園長(初代)、京都造形芸術大学学園長(初代)。参議院議員(3期)、熊本県知事(第... |
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野坂浩賢
日本の政治家。衆議院議員(7期)、建設大臣(第61代)、内閣官房長官(第59代)、日本社会党国会対策委員長、社会民主党副党首・国会対策委員長、鳥取県議会... |
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土井たか子
日本の政治家、法学者。兵庫県神戸市出身。衆議院議長(第59代)、日本社会党委員長(第10代)、社民党党首(第2代)、衆議院議員(12期)などを歴任。日本に... |
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亀井静香
日本の警察官僚、政治家。階級は警視正(警察庁退官時)。衆議院議員(11期)、国民新党代表(第2代)。報道などでは新字体を用い亀井静香とも表記される。ま... |
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園田博之
日本の政治家。たちあがれ日本所属の衆議院議員(8期)。たちあがれ日本幹事長。内閣官房長官、外務大臣、厚生大臣を務めた園田直は父。アニメーション監督の... |
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プロフィール
- 村山富市とは
- 概要
- 国会議員当選まで
- 国会対策委員長から党委員長へ
- 自社さ連立政権発足
- 総理大臣在任中
- 総理大臣退任後
- 政界引退後
- 村山内閣の施政
- 村山談話
- 「女性のためのアジア平和国民基金」設立
- 阪神・淡路大震災
- オウム真理教に対する破壊活動防止法適用申請
- ハイジャックへの警察特殊部隊投入
- 対米国
- 宗教法人法の改正と創価学会との対立
- 官邸機能の強化と政治主導
- エピソード
- スポーツ
- 関連サイト
村山富市(むらやまとみいち、1924年(大正13年)3月3日-)は、日本の政治家。勲等は桐花大綬章。社会民主党名誉党首、学校法人明治大学顧問。大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)、社会民主党特別代表(初代)などを歴任した。
概要
| 大分市議会議員、大分県議会議員を経て、衆議院議員として国政に参画した。 |
| 政治家になる前は社会党左派と見られたが、日本社会党の党内では政権構想研究会や水曜会に所属するなど、一貫して社会党右派として活動した。 |
| 衆議院では社会労働委員会や予算委員会の理事を務め、物価問題等に関する特別委員会では委員長に就任した。 |
| 日本社会党国会対策委員会委員長などを務めたのち、山花貞夫の辞任にともなう日本社会党委員長選挙に立候補し当選した。 |
| 非自民・非共産連立政権では与党第一党の党首として細川内閣や羽田内閣を支えたが、改新結成騒動などを巡り対立が激化し、連立政権から離脱した。 |
| 自社さ連立政権の発足にともない第81代内閣総理大臣に就任し、1994年6月30日から1996年1月11日まで在任した。 |
| その後、日本社会党を解党させるとともに、新たに社会民主党を結成し、同党の党首や特別代表を務めた。 |
| 現在は学校法人明治大学の顧問や大分県職員連合労働組合の特別顧問を務めるとともに、社会民主党の名誉党首や明治大学校友会の名誉会長などの名誉職を務める。 |
| また、明治大学より名誉博士の名誉学位を授与されている。 |
| なお、2010年現在、大正生まれとしては最後の内閣総理大臣経験者である。 |
| 日本社会党在籍歴を持つ内閣総理大臣としては、片山哲(のちに民社党に移籍)、鈴木善幸(のちに自由民主党に移籍)以来3人目であり、1955年以後で初の自民党在籍歴を持たない総理大臣であった。 |
| 但し、鈴木は過去社会党に在籍していたことがあった程度であり、総理としては保守政治家・自由民主党総裁として指名されており、片山と村山のように革新陣営・社会党委員長のまま総理になったわけではない。 |
国会議員当選まで
| 1924年、大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。 |
| 1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。 |
| 1943年、旧制明治大学専門部政治経済科に入学。 |
| 哲学研究部に属す。 |
| このころ、同じく明治大学に通っていた丸谷金保に誘われ、穂積五一が運営する学生寮「至軒寮」に入った村山富市「私の政治人生」村山富市・佐高信『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年、98頁。 |
| 1944年、学徒動員で石川島造船所に配属された。 |
| 同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で宮崎県都城市の陸軍歩兵第23部隊に二等兵として入隊した。 |
| 1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。 |
| 1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。 |
| 1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任した。 |
| 漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した村山富市「私の政治人生」村山富市・佐高信『「村山談話」とは何か』角川書店、2009年、113頁。 |
| 1951年、大分市議会議員選挙に立候補したが、次点で落選。 |
| 1953年、ヨシヱ夫人と結婚。 |
| 再起を期した1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選2回)。 |
| 1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。 |
| 1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。 |
| 以降、落選1回を挟み、通算当選8回。 |
| 1973年には横路孝弘や田英夫らと「新しい流れの会」に参画。 |
| 官公労、教育行政を中心に、地元政界にも深く影響力を発揮した。 |
国会対策委員長から党委員長へ
| 1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。 |
| 1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の賛成多数で成立。 |
| 国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。 |
| 1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。 |
| 同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を回復できず、一方の社会党も新党ブームに埋もれ議席をほぼ半減させた。 |
| 8月、社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足。 |
| 山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。 |
| 後任の委員長には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退。 |
| 9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。 |
| 当選後、書記長には久保亘を起用した。 |
自社さ連立政権発足
| 1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。 |
| しかし、首班指名直後に新生党、日本新党、民社党などが社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。 |
| 社会党の与党内での影響を抑えるためのもので、「改新」は連立与党内で社会党を大きく上回る最大勢力となった。 |
| しかし社会党には事前の相談がなかったため、村山はこれに強く反発して社会党の連立離脱を表明、羽田内閣は少数与党で発足することとなる。 |
| 羽田政権下、社会党内では、久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。 |
| 6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診。 |
| 自身が総理候補に挙がった当初、村山は信じられない様子で「九州から鈍行列車に乗って東京にやってきたような人間が総理を勤められるわけがない」「どうしても社会党から首班をというなら自分よりも相応しい人物を挙げる」などと語ったとされるが、自民党側の熱烈な説得に心を打たれ新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意した。 |
| しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。 |
| 6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。 |
| その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。 |
| ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。 |
| また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍になったことがない唯一の内閣総理大臣であった非自民首相であった羽田孜と鳩山由紀夫は1993年まで自民党衆議院議員であり、細川護熙も参議院議員時代は自民党員で田中派の旗揚げに参加している。 |
総理大臣在任中
| 1994年7月、第130回通常国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。 |
| 1995年1月、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落した(後述)。 |
| 3月には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった(後述)。 |
| その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した。 |
| 5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。 |
| この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。 |
| その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。 |
| 6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。 |
| 6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、警察の特殊部隊に強行突入を指示し鎮圧した(後述)。 |
| 7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた(後述)。 |
| この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投し、内閣改造を行った。 |
| 8月15日、「戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話」(通称村山談話)を閣議決定した(後述)。 |
| 1996年1月5日、首相退陣を表明した。 |
| 村山内閣の間、首相秘書官は、園田原三(社会党中央本部)、河野道夫(左同)、岩下正(大蔵省)、乾文男(左同)、槙田邦彦(外務省)、金重凱之(警察庁)、小林武仁(左同)、古田肇(通産省)が務めた。 |
総理大臣退任後
| 1996年1月17日、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選された。 |
| 衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表(選挙闘争本部長兼務)に就任した。 |
| 第41回衆議院議員総選挙で新設の大分1区から出馬し小選挙区勝利で再選(同区では自民党現職衛藤晟一も比例復活)。 |
| 1999年、野中広務らと共に北朝鮮を訪問した(村山訪朝団)。 |
| 2000年5月30日には衆議院本会議で、首相在任中に脳梗塞で倒れ、内閣総辞職後の5月14日に死去した小渕恵三に対する追悼演説を行った衆議院での与党第一党党首経験者への弔辞は野党第一党党首が行うのが慣例であり、本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が行うはずだが、小渕の遺族側が拒んだため、野党の党首経験者で首相経験もある村山が例外的にこれを行った。 |
政界引退後
| 2006年4月、「内閣総理大臣として国政を担当しその重責を果たすとともに、多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たした」「 |
| 2000年10月、原文兵衛の後任として、財団法人女性のためのアジア平和国民基金の2代目理事長に就任した。 |
| 2007年3月6日、記者会見の席上、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる河野談話)に対する内閣総理大臣安倍晋三の「私の内閣で変更するものではない発言」について触れ、「(女性のためのアジア平和国民基金は)河野談話の精神を踏まえ活動している。 |
村山内閣の施政
| 村山内閣は、55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権であり、政権発足時から、戦後の政治的懸案事項に取り組んだ。 |
| 渡邉恒雄は「よい意味で進歩的内閣で、社会党の反安保・反米、国歌・国旗反対を潰して、国論統一の幅をぐんと広げてくれたことが最大の功績」「平成の九宰相」渡邉恒雄述、伊藤隆・御厨貴・飯尾潤インタビュー・構成『渡邉恒雄回顧録』中央公論新社、2000年。 |
村山談話
| 1995年8月15日の戦後50周年記念式典において村山は、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。 |
「女性のためのアジア平和国民基金」設立
| 1994年8月、「従軍慰安婦問題」に関して民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月、総理府と外務省の管轄下で「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。 |
| いまさら蒸し返す必要はない』、果ては『慰安所ではちゃんとカネを払っていた』といった声まで、国内外の意見の隔たりは大き」村山富市「慰安婦問題『河野談話を継承』こそ重要」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年4月5日、15面。 |
| 」「元慰安婦の方々の高齢化が進むなか、何とか存命中に日本国民からのおわびの気持ちを伝え、悲痛な体験をされた方々の名誉回復を図る」には「いろいろ批判はあろうが、当時の差し迫った状況では、これしか方法はなかった」と記している。 |
| 2000年9月1日、第2次森内閣で内閣官房長官中川秀直が、女性のためのアジア平和国民基金に関する記者会見を開き、同基金に対する日本政府の認識を改めて表明した。 |
阪神・淡路大震災
| 2007年、東京都知事石原慎太郎は「神戸の地震の時なんかは、(自衛隊の派遣を要請する)首長の判断が遅かったから、2000人余計に亡くなったわけですよね」「『震災で判断遅く犠牲者』発言兵庫県知事『失礼だ』」『朝日新聞』43460号、朝日新聞社東京本社、2007年4月10日、38面。 |
ハイジャックへの警察特殊部隊投入
| 1995年6月、羽田発函館行の全日空857便(乗員乗客365人)がハイジャックされ、「サリンを所持している」という犯人がオウム真理教教祖で前月に逮捕・勾留されていた麻原彰晃の釈放を政府に要求した。 |
| 1996年、警察庁は北海道警察本部、千葉県警察本部、神奈川県警察本部、愛知県警察本部、福岡県警察本部に部隊を増設し、警視庁、大阪府警察本部のSAPとともに、正式に「特殊急襲部隊」(SpecialAssaultTeam、通称SAT)の呼称を与え、正規部隊として公表した。 |
対米国
| しかし1994年の第20回先進国首脳会議(ナポリ・サミット)前の会談にて、村山が貧しい漁村に生まれ育った自らの生い立ちから、政治家を志すに至る過程などを訥々と語ったところ、これを聞いたクリントンはいたく感動し、その後のサミットでも不慣れな村山をとかくサポートしたという『石原信雄回顧録 首相官邸の決断』(中公文庫)。 |
宗教法人法の改正と創価学会との対立
| 審議に際し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの与党3党が、創価学会名誉会長池田大作や創価学会会長秋谷栄之助の証人喚問を要求したため、野党の新進党、公明が反発した。 |
官邸機能の強化と政治主導
| 「官邸っていうのは単に行政をやる庁ではなくて政治的な判断をやる庁でもある」TBS,'' |
エピソード
| 国際会議への出席は当然ながら初めてであったため、出発前に宮澤喜一元首相が「通訳がいるので、言葉のことは心配いりませんよ」「政財界、宮沢氏悼む声―首相経験者ら相次ぎ弔問」『朝日新聞』43538号、朝日新聞社東京本社、2007年6月29日、4面。 |
スポーツ
| 相撲-同郷の大分県出身の元大関千代大海と親交があり『スーパーテレビ情報最前線』日本テレビ放送網、少年時代には後の関脇玉乃海と相撲を取ったことがある「私の履歴書」『日本経済新聞社』日本経済新聞社。 |
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1924年
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大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男とし... |
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1943年
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旧制明治大学専門部政治経済科に入学 |
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