| 府中町立府中小学校に入学するも、病状が悪化し国立療養所原病院の院内学級に入り5年生まで過ごす。 |
| 原病院小児病棟での入院では、一緒に入院していた子達が亡くなることもあった。 |
| 入院中に父から教わり、将棋と出会う。 |
| 朝から晩まで指し続けていた。 |
| 体に障ると何度注意されても指し続けた。 |
| 母には、小学館の学習雑誌、「将棋世界」などの本を注文して、持ってきてもらった。 |
| 1999年1月29日放送『驚きももの木20世紀』。 |
| 以降、めきめき頭角を現し、中国こども名人戦で4大会連続優勝。 |
| また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破った。 |
| なお、1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し、敗れている。 |
| また、1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、その上京の際に伝説の真剣師小池重明と遭遇して指し、勝っている。 |
| 谷川浩司が名人になったニュースを聞き、プロ棋士を目指す。 |
| 親にとっては青天の霹靂であったが、「好きなことをやらせたい」という思いで、師匠探しをする。 |
| 当初所属していた棋界の主催者である元奨励会会員は、まだ奨励会入りには早いと告げ、師匠を紹介するのにあたり態度を保留したように思われた。 |
| その為病身より猶予がないことから他に師匠探しを始め、その当時所属していた日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を連れて行く。 |
| 当時30歳の森は、「一目で気に入った。 |
| 普通の子ではない。 |
| 」と思ったという。 |
| 村山は暑がりなのか、真冬なのに裸足でズックを履いてワイシャツを腕まくりしていた。 |
| 1982年、森を師匠とし、奨励会を受験・合格するが、当初紹介されていた元奨励会員も親交のあった灘蓮照に紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていたことから、この師匠を決める際の一悶着を理由に灘が入会に反対したために入会が認められず、森の師匠である当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。 |
| 入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。 |
| 村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。 |
| 」と答えて村山を安心させた。 |
| 村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。 |
| 村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。 |
| 「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。 |
| その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。 |
| 購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。 |
| その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。 |
| また、読書家でもあり、好きな作家にジェイムズ・ティプトリー・Jr.を挙げている。 |
| しかし、関西将棋会館には毎日のように通い、研究にいそしんだ。 |
| 1986年11月5日にプロデビュー。 |
| 奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードである(しかも村山は病気による不戦敗がたびたびあった)。 |
| 風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。 |
| 有名になったため、悪口も言われるようになる。 |
| 村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから髪の毛や爪を切ることを極端に嫌がり、独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。 |
| ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね。 |
| 」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。 |
| だけど、強くなったら言われなくなる。 |
| 村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。 |
| たまには歯ぁ磨き。 |
| (手を握って)まあまあやな。 |
| 」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにしたという。 |
| なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は肉丸、山崎はちん丸というあだ名があった。 |
| 奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。 |
| その代表的なエピソードは、あるA級順位戦の一対局を、関西将棋会館の控え室で村山を含む何人もの棋士達が対局の進行を検討していたときのことである。 |
| そこへ、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。 |
| そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています。 |
| 後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している。 |
| 村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、十代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。 |
| 自分の時間が残り少ないことを裏返しの言葉だとされている。 |
| 1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳(はたち)になりました」と話す。 |
| 棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出にすることが多かったが、羽生善治に対してだけは特別の敬意を払っていたという大崎善生『聖の青春』。 |
| 当時、羽生を筆頭として十代でプロ棋士となった一群の少年達は恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれていたが、羽生善治、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。 |
| この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心メンバーとなった。 |
| また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できない事もあり、実績では羽生に遅れを取ることとなった。 |
| 1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。 |
| その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという。 |
| 翌年、1990年10月1日、第13回若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝。 |
| 1992年度に第42期王将戦の挑戦者となり、1993年1月から谷川浩司王将と七番勝負を戦う。 |
| 対局用の和服の新調が間に合わず、着たのは公開対局の第3局からであった。 |
| その第3局は矢倉戦となったが、初手から終局まで両者の飛車が一度も動かないという珍しい一局となった(右図参照)。 |
| 七番勝負は0勝4敗で敗れたが、「村山らしくない終盤のミス」(谷川談)が何度もあった。 |
| しかし、一方で順位戦では好成績を収め、2年連続昇級で1993年春、B級1組へ昇級する。 |
| 結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた。 |
| 森も村山自身のためになるとして賛成し、大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。 |
| 東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。 |
| 1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。 |
| しかし、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。 |
| その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。 |
| 村山は子供を作れなくなるのが嫌だからと手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。 |
| 手術(1997年6月16日)は片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。 |
| 抗癌剤・放射線治療については、脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困るという理由で拒否していた。 |
| 手術後の復帰第1戦であった第56期B級1組順位戦2回戦(1997年7月14日)の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。 |
| 持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。 |
| 1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、そして、A級復帰祝賀会の後に姿を消した。 |
| 1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。 |
| 以降、逝去するまで広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、1998年8月8日、29歳で死去。 |
| 日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。 |
| A級在籍のまま逝去したのは、大山康晴、山田道美、村山の3人だけである。 |
| 死後、地元府中町では村山聖杯将棋怪童戦を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。 |