1223
1327
15616
%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 東久邇宮稔彦王の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
橋本龍太郎
日本の政治家。岡山県総社市名誉市民。位階勲等は正二位大勲位。愛称は橋龍(はしりゅう)。衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、... |
|
|
吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
|
|
幣原喜重郎
日本の男性外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(... |
|
|
東條英機
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
|
|
鈴木貫太郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。海軍軍令部長(第8代)、枢密院副議長(第14代)、枢密院... |
|
|
田中義一
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、... |
|
|
林銑十郎
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。功級は功四級。陸軍大臣、内閣総理大臣(第33代)、外務大臣(第53代)、文部大臣(... |
|
|
米内光政
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣... |
|
|
池田勇人
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議... |
|
|
久邇宮朝彦親王
父
幕末から明治時代初期の皇族。伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮。 |
|
|
下村定
日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 |
|
|
桂太郎
日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄(きよずみ)元老井上馨とは義理の親子の... |
|
|
芦田均
日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。衆議院議員(11期)、厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、... |
|
|
鳩山一郎
日本の政治家。弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。1912年(大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議... |
|
|
寺内正毅
日本の陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功一級。爵位は伯爵。「&x5167;」の異体字を用いて寺内正毅とも表記される... |
|
|
片山哲
日本の弁護士、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(12期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本... |
|
|
石橋湛山
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(... |
|
|
羽田孜
日本の政治家。衆議院議員(14期)。民主党最高顧問。元内閣総理大臣(第80代)。(在任期間:1994年4月28日-6月30日)。農林水産大臣(第9代、12代)、大蔵... |
|
|
伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
|
|
杉山元
大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将、陸軍大臣、太平洋戦争開戦時の参謀総長。福岡県出身。陸軍士官学校12期。陸軍大学校22期。陸軍大臣、参謀総長、教育総監... |
|
|
プロフィール
- 東久邇宮稔彦王とは
- 人物
- 戦前
- 戦後
- 内閣総理大臣
- 評価
- 家族
- エピソード
- 参考文献
- 関連サイト
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう、1887年(明治20年)12月3日-1990年(平成2年)1月20日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)を名乗った。貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、 防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。
人物
| 日本の第43代内閣総理大臣(在任:1945年8月17日-1945年10月9日)。 |
| 日本史上唯一の皇族首相である。 |
| 戦前日本(大日本帝國)で最後の内閣総理大臣である。 |
| 軍での階級は陸軍大将。 |
| 位階は従二位、勲等功級は大勲位功一級。 |
| 第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。 |
| 連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱え国内の混乱を収めようとしたが、GHQによる内政干渉に抵抗の意思を表すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した尚、この抵抗は、日本占領下時代を通じて日本政府がまとまって抵抗の意思を表した唯一の事例である。 |
戦前
| 久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。 |
| 1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。 |
| 内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。 |
| 陸軍に入り、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。 |
| 1915年(大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。 |
| 1920年(大正9年)にフランスに留学し、フランス陸軍大学を卒業。 |
| 卒業後もパリでの愛人との生活に耽溺し、佐野眞一『枢密院議長の日記』講談社現代新書p.184,2007。 |
| たびたびの帰国命令を拒み続けた。 |
| 結局、大正天皇の崩御と大葬を契機に、ようやく帰国した。 |
| 帰国した時には皇族のなかでも自由主義者として知られるようになっていた。 |
| その後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。 |
| 日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。 |
| 太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将であった。 |
| 日米開戦直前の1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がる。 |
| 皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、近衛文麿、広田弘毅、東条英機をはじめ、海軍が支持したが皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。 |
| 大戦直後には悪化する日米関係、日英関係を好転するため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索東久邇日記したが開戦に至る。 |
| 戦争も終盤になると閣内の中で和平を唱え、東條英機に反対する立場に回った。 |
| -->。 |
| 留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)等の教育機関の創設に携わった。 |
| 特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。 |
| 宮城事件では私邸を焼き討ちされている。 |
戦後
| 1945年(昭和20年)8月17日に首相となり東久邇宮内閣を組閣。 |
| 現役の陸軍大将として陸軍大臣を兼務し、9月2日のポツダム宣言(降伏文書)の調印を迎えた。 |
| ポツダム宣言の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。 |
| これに対して、10月4日GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職した。 |
| 1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)と名乗った。 |
| その後の生涯は波乱に満ちたものであった。 |
| 最初に新宿に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。 |
| 1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。 |
| また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。 |
| このため、任意団体のまま実質解散となった。 |
| その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。 |
| 1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山、片山哲とともに三元首相の連名で時の首相・岸信介に退陣を勧告。 |
| 1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。 |
| 1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。 |
| 晩年には「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)に戸籍を乗っ取られる騒動が起きている。 |
| 1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。 |
| 従二位に叙せられ、これにより、生年月日の記録のある世界の首相経験者としては最も長命かつ100歳を超えて他界した人物(後者は2人おり、もう1人はオランダのヴィレム・ドレース(:en:WillemDrees、1886年7月5日-1988年5月14日))であるとしてギネスブックにもその名が掲載されている。 |
| 同時に記録の確かな日本の皇族では最高齢の記録である。 |
| 没後、-->特例として豊島岡墓地に葬られる。 |
内閣総理大臣
| 300px|thumb|東久邇宮稔彦王(最前列)と内閣の閣僚。 |
| ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。 |
| 日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもある東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。 |
| 副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一が任命された。 |
| また海軍大臣には米内光政元首相がみたび就任した。 |
| 陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日-23日)東久邇宮が兼任した。 |
| 新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇総理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣稔彦王」と表記されていた。 |
| 同様の例として、閑院宮載仁親王が参謀総長在任中に「閑院参謀総長宮」、伏見宮博恭王が軍令部総長在任中に「伏見軍令部総長宮」と呼ばれたケースがある。 |
| 日本の降伏が告知されたものの依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。 |
| この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。 |
| また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。 |
| 在任中の東久邇宮の発言として特に有名なものは、9月5日に国会で行われた施政方針演説の以下のくだりである。 |
| このいわゆる「一億総懺悔論」が東久邇宮首相の主要な政治理念とみなされた。 |
| すでに敗戦直前の時期に内務省情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない。 |
| 一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを使い「一億総懺悔論」の伸張を抑え朝日新聞(夕刊)「新聞と戦争」欄の「写真を処分せよ」シリーズ、特に2007年6月26日付の第8回。 |
| 、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判の準備にとりかかっている。 |
| 首相は、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。 |
| しかしながら内務省の反対により政治犯釈放は実現せず、その民主化を阻害する姿勢に対し、GHQから1945年10月4日に「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、治安維持法・特別高等警察等の廃止、政治犯・思想犯の釈放、自由化・民主化に抵抗する内務省幹部の更迭などを命じられた。 |
| 内務大臣山崎巌は治安維持法なしでは治安維持に責任が持てないとして辞意を表明し、首相もこれを支持するかたちで内閣は翌日総辞職した。 |
評価
| 総理在任期間は54日と最短であるものの、終戦直後の混乱に満ちたこの一時期は、稔彦王以外の者が首相だったらあれほど穏かにはいかなかった可能性も十分にあった。 |
| 十数日で国内を「降伏」で統一し、上陸してきたGHQに誰も危害を加えないようにし、速やかに日本の武装を解除したことは大きな事績といえる。 |
| 総懺悔に見られる東久邇宮の考え方欧米主義的な思想に毒され、本来の日本人の心を忘れ、利己主義的な道に走る日本人が多くなった結果が今日のような結果をもたらしたという考えと責任追及よりも、先の大戦で犠牲となった者たちへの懺悔が先であるという考え-->は、過去の政治指導者こそが責任を負うべきとの重光外相の考え方とは対照的であった。 |
| 但し、当時の世相を見ると日本人が一体となって戦争を支持していたのも事実ではあるし、アメリカ政府が戦争を望んでいたのも事実である。 |
家族
| 兄弟:男子-邦憲王-邦彦王-守正王-多嘉王-暢王-鳩彦王-稔彦王。 |
| 彰常王(1920年-2006年)-1940年10月25日、臣籍降下し粟田侯爵となった。 |
| 俊彦王(1929年-)-1947年、多羅間キヌの養子となりブラジルに移住。 |
エピソード
| 200px|thumb|東久邇宮稔彦王。 |
| 学習院初等科の同期生に、有栖川宮栽仁王、北白川宮成久王、北白川宮輝久王(のちに臣籍降下し侯爵小松輝久)、朝香宮鳩彦王がいた。 |
| また、のちの小説家里見弴もいて親友となる。 |
| 陸軍士官学校では、「敵中横断三百里」で人気を呼ぶ小説家山中峯太郎が一級上にいて、その影響から内田魯庵訳のトルストイの『復活』を読んで物議をかもした。 |
| これが明治天皇の耳に達したため一時は臣籍降下まで検討された。 |
| 陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。 |
| そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。 |
| フランス留学前に自動車の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。 |
| 1941年(昭和16年)夏、アジア主義の大御所である頭山満に対して、日中和平の実現のため蒋介石との間で、和平会談を依頼した。 |
| 蒋の承諾を得て実行に移そうとするも、途中で東条英機首相に止められ、会談は実現に至らなかった。 |
| フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(''オレンジ計画も参照'')」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。 |
| 日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東條英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した『やんちゃ孤独』101-108頁、159-162頁。 |
| 1942年(昭和17年)元旦、昭和天皇に新年の挨拶をした際、陛下の口から高松宮とのやり取りを伝えられ、更に先の不安を深めたという。 |
| 米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣が時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。 |
| 皇族の手で、民主化を進めようと活発な言論と公正な世論に期待するとし、言論と結社の自由を宣言すると共に、閣議で全ての政治犯の釈放と、言論、集会、結社の自由を指示し、憲兵隊の政治活動を禁止する方針をだしたが、GHQと閣僚の対立により、日本政府の威信を保つため、自由化政策を実施する前に退陣してしまい実現に至らなかった。 |
参考文献
| 外務省編『終戦史録(全6巻)』、解説江藤淳、北洋社1978。 |
| 江藤淳編『占領史録』波多野澄雄解題、講談社全4巻,1982。 |
| 林茂、辻清明編『日本内閣史録.5巻』第一法規,1981。 |
| 広岡裕児『皇族』読売新聞社,1998ISBN4643980745、中公文庫,2002ISBN4122039606。 |
|
1940年
|
臣籍降下し粟田侯爵となった |
|
1945年
|
東久邇宮が内閣総理大臣に任命された |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
東久邇宮稔彦王さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|