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つながりの強いひと
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漣健児
シンコーミュージック・エンタテイメント元会長。東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身。訳詞家(作詞家)としては漣健児(さざなみけんじ)のペンネームを... |
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トニー谷
トニー谷(トニーたに、1917年10月14日-1987年7月16日)は東京都出身の舞台芸人(ボードビリアン)。本名、大谷正太郎(おおたにしょうたろう)。リズムに乗... |
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大瀧詠一
シンガーソングライター・作曲家・アレンジャー・音楽プロデューサー・レコードレーベルのオーナー・ラジオDJ・レコーディングエンジニア・マスタリングエン... |
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大滝詠一
大滝詠一 (おおたきえいいち) ミュージシャン,ラジオDJ 1948年、岩手県江刺郡梁川村(現・奥州市)出身。高校卒業後上京、細野晴臣、松本隆、 鈴木茂 と日... |
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藤タカシ
日本のロックバンド/M-BANDのボーカリスト。東京都出身。俳優業の所属事務所はオフィス・タッチ。 |
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高田文夫
日本の放送作家、タレント、演芸評論家。本名は高田文雄。愛称は「高田ギョロメ文夫」「高田先生」。 |
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伊藤アイコ
伊藤アイコ - nifty JAZZ,vocalist,ito,aiko, http://homepage3.nifty.com/jazz-aiko/ いとうあいこ - Wikipedia いとう あいこ(1980年10月24日 - )は日本... |
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市川次郎
東亜における酒と医療の起源 著者名: 市川次郎 出版元: 東亜文物懇話会 冊数: 1冊 刊行年: 平7 カバー 初刷 少日焼シミ有 A5 No. 33367 価格: 9,000円 ... |
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中尾ミエ
日本の女性歌手、女優。本名中尾美禰子(なかおみねこ)。福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。身長156cm。名前は「中尾ミヱ」と表記されていた時期も... |
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内田裕也
日本のミュージシャン、俳優である。本名、内田雄也(読み同じ)。夫人は女優の樹木希林。娘は内田也哉子。また、内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当た... |
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寺岡真三
作品提供
寺岡真三(てらおかしんぞう、1925年(大正14年)12月4日‐2007年(平成19年)8月26日)は昭和期の作曲家、編曲家。本名寺田常三郎。 |
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橋幸夫
東京都荒川区出身の歌手、俳優、プロデューサー。血液型はA型。演歌歌手の橋宏之(ひろゆき)は甥にあたる。 |
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尾藤イサオ
尾藤イサオ(びとういさお、1943年11月22日-)は東京都台東区出身の歌手、俳優。本名は尾藤功男(びとういさお)。現在はアトリエ・ダンカン所属。父は芸人で... |
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寺内タケシ
日本のギタリスト。茨城県土浦市出身、関東学院大学工学部電気工学科卒。通称「エレキの神様」である。また、「テリー」の愛称でも親しまれている。座右の銘... |
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野村義男
日本のギタリスト、音楽プロデューサー、元アイドル、タレント。東京都中野区出身。血液型はA型。身長174cm。愛称はヨッちゃん。(当初の愛称はヨシだった。... |
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梓みちよ
日本の女性歌手。福岡県福岡市博多区出身。本名は林美千代。血液型はO型。1960年代から1970年代を中心に数曲のヒットを飛ばした。アメリカンポップスから歌謡... |
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弘田三枝子
日本の歌手。愛称はMICO(ミコ)、ミコちゃん。歌唱力とパンチの効いた歌声で、「ポップスの女王」ともいわれ、その歌唱力は当時「日本女性歌手史上最高の歌... |
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藤本好一
藤本好一+ブルー・エース の歌詞一覧 - 歌詞情報 リンクするには ブログパーツ 藤本好一+ブルー・エース の新着歌詞 夕日にむかって 歌詞を表示
作... |
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ラトルズ
エリック・アイドルやニール・イネスらがテレビ映画『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』で演じたビートルズのパロディ・バンド。かつてはラットルズ... |
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ミッキー・カーチス
東京都生まれのタレント、ロック歌手、俳優。植木等の死去後、所属しているワタナベエンターテインメントでは最古参の部類に入るタレントである。 |
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プロフィール
- 東京ビートルズとは
- 結成の経緯
- メインメンバー
- サポートメンバー
- 活動期間
- 再発売
- 訳詞
- サウンド
- 参考文献
東京ビートルズ(とうきょうビートルズ)は、日本のコピーバンド(バンド)、歌手グループである。1964年(昭和39年)、当時世界を席巻し始めたばかりの ザ・ビートルズの楽曲に日本語の歌詞をつけ活動した日本で最初期のロックコピーバンドである。もっとも東京ビートルズ名義2枚のシングル(計4曲)の演奏はスタジオミュージシャンによるもので、メンバーが担当したのはヴォーカルのみである。活動期間は約3年と短いものであったが、近年、その音源は日本のロック、ポップスにおける歴史的意義として再評価されている。
結成の経緯
| right|150px|thumb|エルヴィス・プレスリー1957年。 |
| 太平洋戦争終結後の日本のポピュラーミュージックは、戦時中に敵性音楽として禁止されていた反動からジャズブームが起こり、日本ポップスの父と呼ばれた服部良一作曲によるスウィング・ジャズから派生した東京ブギウギなど、ジャズ由来の楽曲が一世を風靡した。 |
| また占領期の日本ではプロ、アマ問わず進駐軍の基地回りにおけるジャムセッションなども頻繁に行われ、戦後しばらくの期間は多くの日本人ジャスプレーヤーが育っていった時代でもあった。 |
| やがてジャズブームが下火になると三橋美智也、春日八郎などの日本的音楽が台頭する一方、ジャズとハワイアンを融合させたフランク永井など日本独自のポピュラーミュージックが形成されていった。 |
| そんな中、戦後も10年を過ぎた1956年(昭和31年)、突如としてアメリカでエルヴィス・プレスリーが登場し、日本においてもジャズからロカビリーへと若者の音楽趣向が変化していったが、当時の日本のポピュラーミュージック界では、歌い手と演奏者(若しくは歌い手と楽曲作成者)は別個のものという概念があり、発声や音程が重視されることから楽譜による模倣が可能だったクラシックやジャズのプレイヤーに、情熱や迫力といったウェイトが大きい従来の音楽とは異なるロック音楽を模倣することは困難であったmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)大滝、p.8-10。 |
| やがてロックの基盤を作れないまま60年代を迎えていた1964年(昭和39年)2月の始め、イギリスリヴァプール出身の4人組グループ、すなわちビートルズがアメリカのビルボードチャートを独占し始めたというセンセーショナルなニュースが日本ポピュラー界にも入り、これに便乗しようと雪村いづみの事務所である「木倉プロ」が若手歌手を集めて急遽、東京ビートルズが結成された。 |
| ビルボードチャート独占ニュースからわずか1ヵ月後の1964年3月初旬のことであったmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)大滝、p.9、黒澤p.16。 |
メインメンバー
| ジョージ岡(1943年-)、ボーカル、リードギター。 |
| 市川次郎(1944年-)、ボーカル、ベース。 |
| 斉藤タカシ(1944年-)、ボーカル。 |
| 須藤マコト(1946年-)、ボーカル。 |
活動期間
| right|270px|thumb|ウェスタンカーニバルが行われた日本劇場。 |
| 前述した3月初旬のメンバー結成後、プロダクションにより約2週間の練習が行われ、3月15日から横須賀市にあるキャバレー「グランド・オスカー」に出演し修行を重ね、日本ビクターからレコードデビューすることが決まり、4月3日には築地にあるビクタースタジオでデビューシングルであるビートルズの日本語カバー「抱きしめたい」と「プリーズ・プリーズ・ミー」の2曲がレコーディングされ、4月下旬に発売された。 |
| 4月8日には上野にあるジャズ喫茶「テネシー」での様子がNET『木島則夫モーニングショー』にて放映されテレビ初出演を果たす。 |
| 翌4月9日深夜には横浜伊勢佐木町にある「トリス・クラブ」に出演し、この時の様子がアサヒ芸能(64年4月19日号)にレポートされているが、その内容から客層はホステスなどの水商売系で占められていたことが伝えられている。 |
| 7月には第2弾シングルとして、再びビートルズの日本語カバー「キャント・バイ・ミー・ラブ」と「ツイスト・アンド・シャウト」のカップリングが発売されたが、結果的にこれが彼らの最後のシングル盤となった。 |
| そして8月には日劇ウエスタンカーニバルへの初出演を飾ることとなるが、音楽評論家からは酷評されてしまい、追い討ちをかけるように翌1965年(昭和40年)にはベンチャーズ来日公演をきっかけとするエレキブームが起こり、東京ビートルズの人気は急速に衰えて、メンバーの須藤が脱退、代わりにサポートメンバーの田村と加瀬沢がメンバーに加入し、ジャズ喫茶や米軍キャンプ等での地味な活動が中心となっていった。 |
| それでも65年春にはビクターにより発売されたソノシート『ビートルズ特集16曲』で前出したシングル4曲に加え新たに録音されたカンサス・シティの計5曲が収録され、8月には同様にビクターによるソノシート『リヴァプール・サウンド特集』が発売され、ビートルズナンバーを含む8曲が収録されたが、この8曲は従来のカバーと異なり、全て原曲通り英語で歌われており、演奏もメンバー自身によるものであった。 |
| この頃オリジナルメンバーの市川に代わり東祐治、さらにボーカルとして杉村ヒロシが加わり6人での編成となっていた。 |
| 12月にポリドールから発売されたエレキギターによるインストロメンタルのオムニバスアルバム『エレクトリック・ギター・ベスト・ヒット65』では2曲で参加をしているが、これが彼らの残した最後の公式録音であった。 |
| ステージレパートリーではオリジナル曲なども演奏され、彼等なりのオリジナリティーを模索していたが、その矢先の1966年(昭和41年)ブルー・コメッツやスパイダースなど一大グループサウンドブームが日本中に巻き起こり、東京ビートルズはすっかり忘れられた存在となってしまい、営業バンドとして活動を続けてはいたものの1967年(昭和42年)の春頃に解散したmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)黒澤、p.16-17。 |
| 後日談として、ギタリストの野村義男が友人のバンドメンバーの体験談として、東京都内某所のスタジオで、警備員としてスタジオで働いていた年配男性が、おもむろにスタジオに入るなり、突然ドラムを叩きだしたので、驚いた友人が年配警備員に「音楽をされているんですか?」と尋ねると「俺は昔、東京ビートルズというバンドをやっていた」と答えたという逸話が語られているが、真偽の程は分からず、その警備員がメンバーの誰なのかも明らかにされていないmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)野村、p.15、具体的な時期は記されていないが記述内容から1980年代中頃の話と思われる。 |
再発売
| 東京ビートルズの音源を所有する日本ビクター(現ビクターエンタテイメント)では、1980年代後期から1990年代始め頃、クレイジー・キャッツやトニー谷、橋幸夫などのリマスター盤CD再発を始めていたが、これらの企画に携わっていたのが大滝詠一であった。 |
| 一連のビクター系音源リマスター再リリースの最後の切り札として東京ビートルズを考えていた大滝は1992年(平成4年)の夏、ニッポン放送のラジオ番組ラジオビバリー昼ズのゲストとして招かれ、同番組のホスト高田文夫から「''私は銀座の松竹セントラルの一番前の席で東京ビートルズの生演奏を見た!もちろん本物のビートルズも武道館へ見に行った。 |
| 両方のビートルズを見ている生き証人である!''meetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)大滝、p.6」と聞かされ仰天し、意気投合した大滝・高田による東京ビートルズ再発売に向けたさまざまなプロモーションが行われ、1993年(平成5年)、大滝本人によりプロデュースされ、「抱きしめたい」、「プリーズ・プリーズ・ミー」、「キャント・バイ・ミー・ラブ」、「ツイスト・アンド・シャウト」のシングル4曲を収めた『meetthe東京ビートルズ』がビクターよりCDとして発売された。 |
訳詞
| ビートルズ楽曲のオリジナル歌詞は言うまでもなく英語であるが、当時の日本ポピュラーミュージック界では、洋楽の日本語訳によるカバーは至極当然のことであり、東京ビートルズにおいても訳詞を手がけたのは、坂本九の「ステキなタイミング」や中尾ミエの「可愛いベイビー」など、訳詞総数400を越える著名な訳詞家漣健児であった。 |
| 「キャント・バイ・ミー・ラブ」における、「''買いたい時にゃ 金出しゃ買える''」の、「''時にゃ''」が江戸弁であることに、「さすが東京と付いているだけあって江戸前である」と、高田文夫は絶賛しており、また高田は、「ビートルズの前に''東京''の''2文字''が加わっただけで、こんなことになってしまうとは・・」とも述べているmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)高田、p.14。 |
| 大滝詠一も、「ツイスト・アンド・シャウト」の訳詞における当時としても死語に近かった「''乱痴気騒ぎ''」という単語の効果的な使い方に感嘆し、また、「''若い俺たちの全部を吐き出し''」、「''羽目を外して''」等の、あたかも忘年会のような雰囲気はチャンチキおけさの若者版とも感じられると語っているmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)大滝、p.12。 |
サウンド
| シングル盤2枚に収められた4曲の演奏はスタジオミュージシャンによるものであるが、これらを編曲アレンジしたのは当時の日本ビクター関連でのアレンジを一手に引き受けていた寺岡真三であった。 |
| 寺岡は主に昭和30年代の洋楽編曲や映画音楽を手がけるなど、一連の流れからビクターは寺岡に東京ビートルズのアレンジを依頼したが、前述したようにロックは楽譜で表現できない、いわば筋書きの無い音楽であって、やむを得ず、もしくは無意識に、その前の時代のサウンドで解釈してしまったことが結果的に東京ビートルズサウンドの特徴であると大滝は分析しているmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)大滝、p.10。 |
| そのアレンジはジャズやポピュラー音楽をベースにしたもので、リアルタイムでビートルズがカバーされた当時、ジャズ風にアレンジされたのは世界でも日本だけであったと言われている。 |
| しかし、一方のヴォーカルは本物の情熱をお手本に取り組んでおり、バックの演奏に熱気が無いだけに、情熱溢れるヴォーカルばかりがクッキリと浮かび上がる結果となり、そのアンバランスさが特徴のひとつとなっている。 |
| また大滝は、「プリーズ・プリーズ・ミー」冒頭のコーラスパート(原曲ではポールマッカートニーのパート)での、「''やーさーしーさーをーかーくーしーてー''」の一本調子が「''とーとーさーまーはー''」という娘浄瑠璃を思い起こさせて、なるほど文化というものは深いものがあり、こういうところにも顔を出してしまうのかと感心し、新しい音楽(歌唱法)を必死に取り入れようとする彼らの姿を、「チョンマゲ姿でフォークダンスを踊るのに等しい」、「西洋文明を必死に取り込もうとしていた明治の我々日本人の先祖の姿」になぞらえ、「日本の文化は落語の権助芝居のようなものなのではないか?全ての輸入文化はこの問題を抱えており、こういう表現に計らずもなってしまう恐れがあり、あとは程度の問題であって究極は全員がこの姿なのではないか?」と、自分自身への自戒の意味も込め、現在の日本ポピュラー音楽界を痛烈に風刺しているmeetthe東京ビートルズ・ライナーノート、(1993)大滝、p.7-13、野村p.15、黒澤p.16。 |
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ビルボードチャート独占ニュースからわずか1... |
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