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つながりの強いひと
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松平忠直
江戸時代の大名。越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男、母は側室の中川氏。 |
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結城秀康
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家宗家初代。 |
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松平忠昌
江戸時代前期の大名。越前福井藩(北ノ庄藩)第3代藩主。初代藩主結城秀康の次男で、第2代藩主松平忠直の同母弟。 |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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松平光通
江戸時代の大名。越前福井藩の第4代藩主。第3代藩主松平忠昌の次男(次男だが嫡男)で、結城秀康の孫に当たる。母は広橋兼賢の娘。正室は越前松平光長の娘・... |
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国姫
江戸時代の人物。松平光通の正室。松平光長の娘。母は土佐(毛利秀就の娘)。越前松平家の本家筋の高田藩から福井藩主の松平光通のもとへ嫁いだ。京都の公家... |
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松平忠輝
松平忠輝 作家: 中島道子 250円 (新品定価: 700 円 → 450円おトク) 在庫なし 中島道子の在庫あり商品を探す お気に入りに追加 この商品をお友達に紹介 ... |
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毛利秀就
江戸時代の大名で、長州藩初代藩主。毛利輝元の長男。母は側室・児玉元良の娘。正室は結城秀康の娘・喜佐姫(徳川秀忠の養女・龍昌院)。子に松寿丸、毛利綱... |
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徳川綱吉
徳川徳松、鶴姫。俗に、柳沢吉里が綱吉の落胤であるといわれるが、実際には疑わしい。 |
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丹羽長重
安土桃山時代の武将・大名。江戸時代前期の外様大名。丹羽長秀の長男。 |
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徳川家光
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年-1651年)である。2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる江であった。乳母は春日局(福... |
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伊達宗利
伊予国宇和島藩の第2代藩主。初代藩主・伊達秀宗の三男。母は浅井氏。正室は松平光長の娘・大通院(稲姫)。側室に昆陽野氏、元泉氏、田部氏、入野氏、古谷氏... |
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徳川家綱
徳川家綱(とくがわいえつな)は江戸幕府の第4代将軍(在職:慶安4年(1651年)-延宝8年(1680年))である。父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝... |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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永見長良
越前松平家の一族。父は北ノ庄藩主松平忠直。幼名は熊千代。母の身分が低かったために祖父結城秀康の母方の実家である永見氏を名乗った。通称・大蔵。父の改... |
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鶴姫
徳川綱吉の長女。母は小谷正元の娘瑞春院。紀伊藩主・徳川綱教の妻。3代将軍・徳川家光の孫で、4代将軍・徳川家綱の姪にあたる。1681年に紀伊藩嫡子の徳川綱... |
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永見長頼
越前松平家の一族。父は北ノ庄藩主松平忠直。母は平賀治部左衛門娘。幼名は松千代。母の身分が低かったためとも、配流先で生まれた、つまり松平姓を憚ったた... |
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家老
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
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松平信綱
江戸時代前期の大名で川越藩主。老中。官位名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。 |
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松平慶永
松平慶永 まつだいら よしなが
文政11年9月2日 〜明治23年6月2日 (1828〜1890) 写真1:近世名士写真 其2 白黒 ; 27.0×21.0cm 東京生まれ。幕末の... |
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プロフィール
- 松平光長とは
- 高田立藩まで
- 越後騒動
- 晩年
- 略年表:官職位階履歴
- 関連項目
- 関連サイト
高田立藩まで
| 1615年(元和元年)越前北庄藩主・松平忠直と、第2代将軍徳川秀忠の娘・勝姫の間に生まれる。 |
| 1621年(元和7年)江戸へ赴き、祖父である将軍秀忠に初見。 |
| 以後数年を江戸屋敷にて養育される。 |
| 父・忠直は将軍秀忠と仲が悪く、粗暴な一面もあったなどとされるが、1623年(元和9年)2月に幕府により豊後国に配流とされた。 |
| 「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」(『越系余筆』井上翼章・文化3(1806)年 松平文庫蔵)とあって、寛政12年(1800年)に福井松平氏に対して幕府は『福井松平家系図』の修正を命じ、福井松平氏では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えた。 |
| これにより幕府の公式見解は「忠直-忠昌となる。 |
| 『福井県史 通史編3・近世一』では「光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない」、「細川忠利は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、秋田藩の重臣梅津政景も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」として、光長が一旦相続したとしているが、いずれも幕府の公式見解とは異なる。 |
| 当主不在となった北庄藩から重臣の笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を3月に越前に迎え入れた。 |
| 当初幕府からは、光長の相続の許可に対する内示があったが、その後なんらかの方針転換があったのか、幕府から秋元泰朝等が派遣され、仙千代は江戸に帰されることになった。 |
| 翌年4月、江戸城に越前松平家支流諸家を集めた場にて、幕府の指示により、忠直の次弟で当時越後高田藩主であった松平忠昌を忠直の後継の北庄藩主とすることが申し渡された。 |
| 忠昌は兄や仙千代の行く末を思いやって当初これを拒んだが、幕府から仙千代には別に配慮がなされるとの約束を取り付け、後継を引き受けたという話が伝わる。 |
| 幕命により、秀康以来の筆頭家老である本多富正(附家老)および同じく幕命により選ばれた百余名の家臣は福井藩の付属とされ、残りの家臣らと仙千代には改めて越後高田に26万石が与えられ、仙千代を藩主とする高田藩を立藩した『福井松平家系図』には「寛永元年(1624年)甲子四月十五日以特命続秀康、賜封之内五十万石余」(『福井市史 資料編4・近世二』)と記され、松平光長の高田立藩、同じく松平忠昌の福井藩相続は1624年であったとされる。 |
| 福井藩の出来事に関する諸文献を収録した『国事叢記』弘化3年(一八四六年)福井藩の命を受けた藩士が編纂した、福井藩歴代の諸話を集めた書物。 |
| 「叢」の文字が示すように、藩内に伝わる”話”を大量雑多に収録してあり、福井藩史研究の一資料である。 |
| しかし正式な「藩史」ではなく、例えば「徳川三河守秀康」「光通は村正の刀で自刃」忠直改易の年を間違う、など、いわゆる巷談や不確かな記述も雑多に収録されており、全ての内容を史実と捉えることには注意が必要。 |
| に拠れば、「忠昌は北ノ荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣この叢記の記述に関しては、忠昌相続時に他の兄弟(直政、直基、直良)もそれぞれに越前国内に藩を成立させたが、それら諸藩に再仕官した家臣らもおり、残りの全てが高田藩に再仕官したのではないという点に留意。 |
| は光長に随って越後高田藩臣となった。 |
| また、老臣のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多伊豆守(本多富正)のみ忠昌に出仕した。 |
| 」となり、幕府に選ばれなかった家臣のうち、他藩に仕官することのできなかった(しなかった)人員の多くは、光長の高田立藩時にその家臣となったと推測される。 |
越後騒動
| 延宝2年(1674年)1月30日、嫡子の綱賢(幼名・徳千代)が42歳で没した。 |
| 綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかったため急ぎ世継を定めねばならなくなった。 |
| 重臣たちの評議の結果、甥にあたる永見万徳丸(異母弟・永見長頼の子)を世継ぎとすることが決まり、万徳丸を養子として迎えた(松平綱国)。 |
| ところが、この縁組の過程を巡って異母弟・永見長良(長頼の同母弟)や義弟にあたる家老・小栗美作などの重臣たちの争いが激化して、いわゆる越後高田騒動に発展した。 |
| 長期に渡り藩内に混乱をもたらしたが、一旦は幕府により裁断が下され、落着となった。 |
| 裁決の翌年、4代将軍家綱が死去し、5代将軍徳川綱吉の代に至り、綱吉は越後騒動に対し異例の再審議を、これもまた異例の将軍直裁にて行った。 |
| 綱吉の裁断により高田藩は改易となり、光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩に配流され、藩士らにも大量の処分者を出した。 |
| また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲広瀬藩主松平近栄(3万石→1万5,000石)・播磨姫路藩主松平直矩(15万石→豊後日田7万石)が連座して処分となった。 |
晩年
| 貞享4年(1687年)、老齢および「(騒動は家臣らのせいであり)光長本人に咎はない」として、綱国とともに赦免・召還され、賄料として合力米3万俵を与えられ諸侯に復帰する。 |
| 後に綱国を病弱を理由に廃嫡する。 |
| 不仲であったとも伝わる。 |
| 綱国は宝永5年(1708年)に出家し、享保20年(1735年)3月5日に74歳で死去した。 |
| 綱国の子孫は永見氏と改姓し、のち津山藩城代家老連綿の家系として存続した。 |
| 1870年(明治3年)松平氏へ復姓した。 |
| 小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、徳川光圀の周旋によって、元禄6年(1694年)、一門の松平直矩の子・源之助(矩栄→長矩→宣富、と改名)を養嗣子とする。 |
| 元禄10年(1697年)に光長は隠居した。 |
| 元禄11年(1698年)、松平長矩に(光長賄料の合力米3万俵とは別に)新しく美作国内に10万石が与えられ、津山藩が立藩した。 |
| 光長はその後は静かな余生を送り、宝永4年(1707年)江戸にて、93歳の当時としては極めて長寿な生涯を終えた。 |
| この際、3万俵を継承し得る実子ないしは養子が存在していれば、(他の例もあるように)合力米3万俵格の新しき藩が成立したであろうが、相続者のいないまま3万俵は幕府に戻されることとなり、光長家3万は継続されることはなかった。 |
| 光長に仕えていた家臣の一部は他家へ、あるいは名を変えるなどして津山藩に引き取られ、また光長の名乗りである「越後守」は光長所縁である津山藩歴代に継承された。 |
略年表:官職位階履歴
| 1615年(元和元年) 越前国北荘(福井)城で生まれる。 |
| 1621年(元和7年) 江戸へ行く。 |
| 外祖父である将軍徳川秀忠初見。 |
| 以後江戸城中にて養育される。 |
| 1623年(元和9年)2月22日、父忠直配流により「祖父秀康以来の遺跡越前国一円領知すべき旨」によって、越前へ初入国する。 |
| 1624年(寛永元年)4月15日、越後高田藩26万石越後・信濃の旗頭を命じられ、与力大名として。 |
| 越後村上藩(堀直寄・在番:堀直吉)10万石。 |
| 越後長岡藩(牧野忠成)7万4,000石。 |
| 越後新発田藩(溝口宣直)5万石。 |
| 信濃飯山藩(佐久間安次)3万石。 |
| 信濃松代藩(真田信之)10万5,000石。 |
| 信濃松本藩(松平直政)7万石。 |
| 信濃上田藩(仙石政俊)6万88石。 |
| が付属された。 |
| へ転封。 |
| 1629年(寛永6年) 叔父である将軍徳川家光の一字を賜り、元服し、光長と名乗る。 |
| 11月11日、従四位下に叙位。 |
| 左近衛権少将に任官。 |
| 1630年(寛永7年) 妹亀姫、大御所徳川秀忠の養女として高松宮好仁親王の正室となる。 |
| 1631年(寛永8年) 毛利秀就の娘土佐姫を正室に迎える。 |
| 1632年(寛永9年) 妹鶴姫、将軍徳川家光の養女として九条道房の正室となる。 |
| 1650年(慶安3年) 父忠直死去。 |
| 豊後で生まれた忠直の遺児3人(永見長頼、永見長良、勘姫)を高田に引き取る。 |
| 1651年(慶安4年)12月15日、従三位右近衛権中将に叙任。 |
| 1653年(承応2年) 嫡子綱賢元服。 |
| 従四位下侍従・下野守に叙任。 |
| 1655年(明暦元年) 娘国姫、松平光通の正室となる。 |
| 1658年(万治元年) 娘稲姫。 |
| 伊達宗利の正室となる。 |
| 1666年(寛文6年) 綱賢、左近衛権少将に叙任。 |
| 1672年(寛文12年)母勝姫(高田殿)死去。 |
| 1674年(延宝2年) 綱賢死去。 |
| 養嗣子綱国、従四位上侍従三河守に叙任。 |
| 1677年(延宝5年) 正室土佐姫死去。 |
| 1681年(天和元年)6月26日、改易。 |
| 光長は伊予松山藩に、綱国は備後福山藩に配流。 |
| 賄料1万俵。 |
| 1687年(貞享4年)10月24日、赦免召還。 |
| 12月25日、従三位に復位し、右近衛権中将に復任し、越後守を兼任。 |
| 江戸・柳原へ住居する。 |
| のちこの屋敷は火災で焼失。 |
| 1693年(元禄6年) 世子・綱国を廃嫡し、松平直矩の子矩栄が養嗣子に迎えられる。 |
| 父直矩と光長のそれぞれ一字を受け長矩と改名する(源之助→矩栄→長矩→宣富)。 |
| 1697年(元禄10年)5月6日、隠居。 |
| 1698年(元禄11年) 養子・松平長矩が美作津山藩拝領。 |
| 光長には合力米年3万俵。 |
| 1707年(宝永4年) 江戸・高田にて死去。 |
| 享年92(満91歳没)。 |
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1674年
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嫡子の綱賢(幼名・徳千代)が42歳で没した |
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1687年
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老齢および「(騒動は家臣らのせいであり)光... |
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