| 現役引退後、東洋工業/マツダに在籍し社員およびサッカー部監督として働く一方、ユース日本代表監督など指導職を歴任した。 |
| 日本代表ユース監督(U-19)時には、尾崎加寿夫、風間八宏、鈴木淳、柱谷幸一、水沼貴史ら後のフル代表の主力選手を抜擢し、1979年に日本で開催された第2回ワールドユースディエゴ・マラドーナ、ラモン・ディアスが活躍したことで知られる。 |
| に出場した。 |
| 1985年のアジアユース監督時には、井原正巳元々攻撃的な選手であった井原をスイーパーにコンバートさせたのは松本である。 |
| 、中山雅史、黒崎久志、真田雅則、礒貝洋光、前川和也ら後のJリーグを支える選手を選抜した。 |
| 独特の高い声で、しばしばサッカー解説者としてテレビにも登場、1980年代のサッカー不遇の時代を支えた一人でもある。 |
| その当時、サッカー解説者といえば「『三菱ダイヤモンド・サッカー』の岡野俊一郎」か「トヨタ・カップ、高校サッカーの松本」であった。 |
| 1993年のJリーグ開幕以後数年の大ブーム時も、日本テレビ系にてゴールデンタイムに生中継されていたJリーグ中継(主にV川崎主催試合)の解説者を務め、お茶の間にその声が知られた。 |
| 1990年のJリーグ創設時、マツダSCは参加10チームに当確といわれたが、一転、親会社のマツダが財政的理由から降りようとした。 |
| この時、野村尊敬(当時広島県サッカー協会会長)、小沢通宏(当時マツダSC部長)、今西和男(当時同副部長・総監督)らと共に、関係者の折衝に尽力しJリーグ入りの道を拓いた。 |
| 1996年にマツダを退社。 |
| 同年、Jリーグに昇格した京都パープルサンガでゼネラルマネージャーに就任。 |
| オスカーやハンス・オフトら有名監督を招聘、ラモス瑠偉や森保一ら日本代表を大型補強するも、結果が伴わず、1999年シーズン途中に退任。 |
| 1999年シーズン途中、川崎フロンターレに招聘され監督に就任。 |
| 強い精神力と熱血指導で、前年のJ1参入決定予備戦に敗れ、1999年シーズンが始まっても調子の上がらなかった川崎のチーム状態を建て直し、同年のJ2で優勝、悲願のJ1昇格を実現させた。 |
| しかし翌2000年は代表権のない社長職に追いやられる。 |
| 急にチームの根幹を変えたチームは序盤から低迷し、結局シーズン最下位でJ2降格、松本は社長を辞任した。 |
| 2002年、長野県の通信制高校である私立地球環境高等学校で監督に就任。 |
| わずか7ヶ月という短期間でチームを作り上げ、同年末の高校選手権で長野県代表を勝ち取るという偉業を成し遂げた。 |
| 翌2003年の高校総体でも長野県代表となったが、拡大主義を志向する高校側と意見がぶつかり、2003年8月で辞任。 |
| 2004年にはJリーグから要請され、混乱の極にあったJ2のサガン鳥栖で監督に就任。 |
| 一時は躍進の気配を見せるものの、経営面でのゴタゴタや戦力不足等により11位に終わった。 |
| 2005年には鳥栖の経営が安定し、また自身の裁量で戦力補強を行ったことにより、前半戦は2位に進出するも、DFなどに怪我人が続出して最終的には8位に終わった。 |
| オフには一部で「総監督」就任の話が出たが、現場中心主義の松本の意向を尊重して続投となった。 |
| 2006年は初のシーズン勝ち越しや4連勝など、クラブ史上最高の成績を残し、残り4試合までJ1昇格の可能性を残していた。 |
| この年限りで監督は勇退し、2007年からは岸野靖之に監督の座を禅譲、自身はゼネラルマネージャーに就任した。 |
| 2009年8月11日、日本サッカー殿堂入り |
| 2009年シーズン終了後、岸野靖之監督の退任に伴い、再び鳥栖の監督に就任。 |
| 同時にヘッドコーチに据えた尹晶煥がS級ライセンスを取得するまでの間、尹が将来的に監督となるための必要な指導を行いつつクラブの指揮を執る |
| 2010年シーズン終了後、翌シーズンからの尹の監督就任に伴う退任が発表された。 |
| 2011年は鳥栖のアドバイザーを務めていたが、5月限りでこれも退任した。 |