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つながりの強いひと
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秋山幸二
熊本県八代郡宮原町(現:氷川町)出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球監督、野球解説者。現役時代は鉄人と呼ばれた。シーズンからは、福岡ソフトバン... |
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福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身の元プロ野球選手(外野手)。後半戦からまでの登録名はカズ山本。愛称は「ドラさん」、「ドラ」、「カズ」。現在... |
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大阪府大阪市生野区出身の元プロ野球選手(外野手)。通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時は世界記録)で、「世界の盗塁王」の異名を持つ。引退後はコーチ... |
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プロフィール
- 松永浩美とは
- 来歴・人物
- 概要
- 「砂場発言」への反論
- エピソード
- 年度別打撃成績
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 背番号
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
松永浩美(まつながひろみ、1960年9月27日-)は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手(内野手)。「史上最高のスイッチヒッター」と称される。
来歴・人物
| 福岡県立小倉工業高等学校では外野手兼控え投手であった。 |
| 1978年に高校を中退し、阪急ブレーブスにドラフト外入団するが、野球協約に触れたため選手登録ができず、練習生兼用具係を経てに正式な選手となった。 |
| 持ち味の俊足を生かしてスイッチヒッターに挑戦。 |
| に一軍デビューし、打数は少ないものの打率.326を記録。 |
| 以降、阪急・オリックスにわたってチームの主軸打者として活躍。 |
| には38盗塁で盗塁王を獲得。 |
| 、高沢秀昭との首位打者争いで敬遠作戦に遭い、11打席連続四球、10打席連続敬遠四球、1試合4敬遠四球(ダブルヘッダーで2試合連続)の日本記録となる。 |
| 松永は最終打席で、到底届かない敬遠のボールに向かってバットを投げて当てにいくことを3度試みたが、いずれもボールには当たらず三振した。 |
| にも僅差で首位打者を逃した。 |
| ダイエー退団後、アメリカ・メジャーリーグへの挑戦を表明。 |
| オークランド・アスレチックスの入団テストを受け、プレシーズンゲームに出場するが、27打席ノーヒットなどの不振で引退することになった。 |
| 2006年6月、埼玉県三郷市に『松永浩美ベースボールアカデミー』を設立。 |
| 阪神時代の後輩の鮎川義文と元ヤクルト投手の矢野和哉と共に小・中学生を対象としてプロ野球選手の育成に乗り出した。 |
| 別冊宝島のインタビューで本人は「プロの選手は完成されているから、興味が無い。 |
| プロとしてのプライドもあるだろうし。 |
| それよりも無限の可能性のある少年の方がいい」と、プロ球界復帰には否定的である。 |
| 現在はプロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズに参加し、毎年高い打率を残している。 |
| 2006年11月25日のマスターズリーグの試合で通算96本目の安打を記録、NPB(日本野球機構)での現役時代とマスターズリーグの合算により2000本安打を達成。 |
| これにより、マスターズリーグ及び日本プロ野球名球会から、「名誉会員」として表彰を受け、名球会に入会した(従来、打者は日本プロ野球の現役登録選手で2000安打を達成しないと名球会入りが出来なかったが、規約の改正でマスターズリーグとの合算で2000安打を達成しても名球会入りが出来るようになった)。 |
概要
| 松永は、阪神タイガースへのトレードが決定した際の記者会見では、「トレードを意気に感じている」、「中村勝広監督を男にしてみせる。 |
| 俺は義理堅い男だよ」などと熱い口調で決意を述べ、その姿に、強力な3番バッターを待ち望む阪神ファンの期待も高まる一方であった。 |
| 開幕前の過熱振りはまさに「松永フィーバー」とも言うべき盛り上がりを見せ、関連グッズの数量も他選手をはるかに超えるものだった。 |
| しかし、開幕2戦目で早くも故障して期待を裏切ってしまい、シーズンオフにFA権を行使して福岡ダイエーホークスへ移籍してしまった。 |
| 松永のFA宣言は日本球界初のものでもあり、全国的な注目を集める話題となった。 |
| FA宣言した後、11月後半に他球団に先立って阪神と残留交渉を行ったが、阪神球団側から「松永君、キミとは縁が無かったんだよ」と突き放す発言があり、その後ダイエーと交渉・移籍に至ったと、ベースボール・マガジン社「プロ野球トレード大鑑」にある。 |
| このFA宣言の直後の記者会見で、松永が阪神からのFA移籍について「単なる通過点に過ぎない」、「阪神とは縁が無かったということ」などと、阪神ファンを突き放す発言で答える姿や、また自宅前で報道陣に「阪神ファンへのメッセージはないのか」と問われ、これに反発した様子で「何もないね!」と答える姿が、フジテレビの『プロ野球ニュース』や、NHKなど各局のニュース映像で流された。 |
| これに対し、入団時の松永の言葉を真に受けて、次シーズンでの挽回を信じていた阪神ファン達は驚き、球団や関係各所にその真意を求める問い合わせが殺到することとなった。 |
| 騒ぎが拡大したのを受けて松永は行方をくらまし、故郷の福岡に雲隠れをする。 |
| さらにこの「FA宣言第1号」による過熱報道の渦中に、松永が「甲子園は幼稚園の砂場」と発言したとの報道が流れた。 |
| そもそもFA制度が日本球界に導入されたのは、選手会において松永が提案したことが始まり。 |
| 雑誌のインタビューによると、そのきっかけは1988年のドラフト最大の目玉だった慶應義塾大学・志村亮の指名拒否騒動だったという。 |
| ドラフト外から入団し、練習生から這い上がった松永にとって、ドラフト指名を拒否する者の登場は衝撃的で「そこまでプロ野球に夢がなくなってしまったのか」という危機感からFA制度導入を考えたという。 |
| 同時に「出身地である福岡でプレーすることも頭にあった」とも語っている。 |
「砂場発言」への反論
| 現在、「甲子園は幼稚園の砂場」発言は一部マスコミによる捏造だったとされている。 |
| 当時、阪神の野手で盗塁を得意とする選手はほとんどおらず、加えて貧打に泣いて投手陣の防御率も悪かった阪神サイドとしては、せめて相手球団の攻撃力を下げるために内野全体を柔らかくしてヒット性の当たりを弱くしたり、ダッシュが効かないようにしていた。 |
| 前年まで二桁盗塁をコンスタントにキープしていた松永は、当時阪神の正遊撃手だった久慈照嘉と相談して「もっと一塁ベースからのランニングエリアを硬くしてほしい」とグラウンドキーパーに要望を出したら「要望で軟らかくしている」と言われたので、誰の要望なのか聞き返すと「平田(勝男)さんの要望で軟らかくした」と言われ、「試合に出ない人の要望を聞いてどうするの。 |
| 柔らかすぎて滑るんだよ」と言ったら、その柔らかさについてグラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらいか?」と質問し、松永は「いや、そんなには…」と答えた(その後甲子園は、赤星憲広の入団によって硬めの仕様となっている)。 |
| この一連のやりとりが松永のFA宣言当時、一部のマスコミによって「松永が『甲子園の土は幼稚園の砂場』と発言した」と歪曲報道され、火に油を注ぐことになってしまった別冊宝島「プロ野球スーパースター引退劇の真実」の松永のインタビューより引用。 |
| これは、松永の「言いたいことは不満だとしても濁さずハッキリと言う」性格上、阪急在籍時代から記者などのマスコミと発言趣旨の行き違いによるトラブルが頻発し、徐々に一部マスコミの間で松永を問題児(扱いにくい・都合の悪い人物)、トラブルメーカーとするようになったために起きた騒動である。 |
| その結果、松永の様々な発言は大多数がネガティブな物に変換されてしまい、阪急時代からスポーツ新聞を賑わせていた。 |
| FA宣言当時、松永は滞在先のホテルで記者に質問を受けたとされているがこれは全くの誤報どころか虚報である。 |
| 松永はFA宣言当初、阪神ファンを突き放す発言をしたために、友人から「阪神ファンを逆撫でするような事は言わない方がいい」とアドバイスを受け、匿名でホテルに宿泊し、1ヶ月の間新聞記者には全く誰にも会わなかったと断言している。 |
| それにもかかわらず、当時の新聞には松永のコメントが連日のように掲載され、「俺は話さなかったのに、これはどういうことなんだ?」と恐怖を覚えたという。 |
エピソード
| 後に毎日放送のラジオ番組『スポーツ・ナウ』で萩原誠が語ったところによれば、1993年夏の時点で松永に「俺は来年はいないんだから、お前しっかりサードの練習しとけよ」と二軍の練習で声をかけられたとのことである。 |
| 太田幸司に「それってFAで出て行くって事?」と聞かれた萩原は「そうですね」と肯定しており、松永本人はすでにシーズン中の夏には、他球団への移籍を考えていたことになる。 |
| 雑誌のインタビューでオリックス・ブルーウェーブについて「オリックスになってからおかしくなったよね。 |
| OBが誰も協力しないんだもの。 |
| ある意味選手がかわいそうだよ」と評している。 |
| オリックスへの嫌悪感は相当なものであり、雑誌のインタビューで「OB戦があっても絶対にオリックスのユニフォームは着ない。 |
| 阪急のユニフォームを着るよ」と発言。 |
| またダイエー退団の裏話として「フロントから、引退試合を用意するから辞めてくれと言われた」と不信感を抱いている。 |
| その一方で、杉浦忠が亡くなった際「ラジオ局の解説枠が1つ空いたことで、松永もチャンスだから売り込めよと言われたが、そこに目をつけて自分を売り込むというOBの思考が自分は理解できない」と発言している。 |
| 通算6回の1試合左右両打席本塁打は現役時代単独1位記録であったが、引退後の2007年、北海道日本ハムファイターズのフェルナンド・セギノールが6月19日の対広島戦で通算7回目の左右両打席本塁打を記録し、松永の記録を更新した。 |
| 1993年、阪神在籍時に一旦は背番号2をつけていたが、1991年~1992年に阪神に在籍していた高橋慶彦がケガをして引退したため、縁起が悪いという理由で自分を鬼(02)のように強くと縁起をかつぎ、背番号を02番に変更した。 |
| 0番、00番以外に0で始まる背番号で登録されたのは日本プロ野球の公式戦に出場した選手で唯一(ただし、西武のオレステス・デストラーデが、ユニフォームを忘れた際、チームスタッフの背番号05のユニフォームを借りて試合に出たことはある)。 |
| なお、現在では規定の変更により支配下登録選手は00・0~99番以外はつけられなくなった。 |
| メジャーへの挑戦は、当時日本人野手として史上初、年齢も含めてすべての常識に挑戦したいと本気モードであったが、引退後は著書で「あれは引退にケリをつけるための儀式だった」と述べている。 |
| 現在はプロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズの主砲としても活躍しているが、現役引退後に太ったことと、阪急入団1年目の背番号87をつけていたのでファンから稲尾和久監督(背番号81)に間違えられてしまい、「痩せなきゃいけない」と思ったという(『元・阪神』より)。 |
| 野球を始める前はサッカー少年であり、ポジションはFWだった。 |
| 当時の夢は「ワールドカップ出場」だったと週刊ベースボールにて伝えられたことがある。 |
年度別打撃成績
| 各年度の太字はリーグ最高。 |
| 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更。 |
タイトル
| 盗塁王:1回(1985年)。 |
| 最高出塁率:1回(1989年) 。 |
表彰
| ベストナイン:5回(三塁手:1988年~1991年、1994年)。 |
| ゴールデングラブ賞:4回(三塁手:1984年、1989年、1990年、1994年)。 |
| オールスターゲームMVP:1回(1985年第3戦)。 |
記録
| サイクル安打:2回。 |
| 1回目:1982年10月8日、対南海ホークス戦、西宮球場。 |
| 2回目:1991年5月24日、対ロッテオリオンズ戦、グリーンスタジアム神戸。 |
| 1試合左右両打席本塁打:通算6回。 |
| 3試合連続初回先頭打者本塁打(1993年8月20日~8月22日)。 |
| 11打席連続四球(1988年10月22日~10月23日)。 |
| 13打席連続出塁(1988年10月22日~10日23日)。 |
| オールスターゲーム出場:11回(1983年~1986年、1988年~1992年、1994年、1995年)。 |
| 通算1000試合出場 1989年6月17日(284人目)。 |
背番号
| 87(1978年)。 |
| 48(1979年-1982年)。 |
| 8(1983年-1992年)。 |
| 2(1993年-同年6月28日)。 |
| 02(1993年6月29日-同年シーズン終了)。 |
| 3(1994年-1997年)。 |
参考文献
| 『元・阪神』竹書房、2004年ISBN978-4-8124-1665-5。 |
| 「プロ野球スーパースター引退劇の真実」宝島社、2008年ISBN978-4-7966-6417-2。 |
| 「プロ野球最後のサムライ」(斉藤直隆)コアマガジン、2005年ISBN4877348190。 |
関連項目
| 福岡県出身の人物一覧。 |
| 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧。 |
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1960年
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松永 浩美(まつなが ひろみ)は、福岡県北九... |
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1978年
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高校を中退し、阪急ブレーブスにドラフト外入... |
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投票数
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