| 1959年、中日ドラゴンズに入団。 |
| プロ入り同期はチームメイトでは江藤愼一、河村保彦、片岡宏雄、他チームでは王貞治(巨人)、張本勲(東映)、村山実(阪神)、足立光宏(阪急)、田中俊幸(南海)がいる。 |
| 中日に入団した動機について、「母親が契約金に釣られたから」「球団職員が高額紙幣を使わずにわざと半端な紙幣を使って札束の山を大きく見せ、そんなもの見たことがない徳島の親を買収したから」と講演会で冗談交じりに告白している。 |
| 王、長嶋よりも高額な契約金著書の中で2000万円と公表している。 |
| 王、長嶋はともに推定1500万円~1800万円と言われるであった。 |
| フジテレビの『ジャンクSPORTS』に出演したときには「小切手に「1」だけ書き込まれ、『後は好きなだけ0を書いてください』と言われた」と話したこともある。 |
| 入団2年目の1960年、オールスターゲームに監督推薦で選出され、後楽園での第2戦に全セの4番手として登板。 |
| 先頭は田宮謙次郎(大毎)だったが、田宮のネームバリューに圧倒され板東自らの意思で敬遠、小柄である次打者のカールトン半田(南海)に対しおちょくったつもりで甘い球を投げたところを痛打され、球宴史上初のランニング本塁打を献上する結果となってしまい、一死もとれずに降板した。 |
| 更にベンチに戻ると全セの水原茂監督(当時巨人監督、のちに中日の監督も務める)に「板東、もう名古屋へ帰れ。 |
| お前を選んだ俺がバカだった」とダメ出しされた。 |
| ちなみに板東は2007年のMLBオールスターでイチローが同大会史上初のランニング本塁打を記録した際にも「日本のオールスター史上初のランニング本塁打を献上したのは僕なんですよ」と様々な放送番組で語っている。 |
| 1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢されている。 |
| これは現在も中日の開幕投手の最年少記録。 |
| 巨人が2000勝を達成した、1965年7月25日の中日球場での中日戦で先発、8回1死まで巨人打線を無得点に抑えていたが柴田勲に逆転2ランを浴び、敗戦投手となる。 |
| 巨人が5000勝を達成した2007年には日本テレビのプロ野球中継の中で放送されたほか、日テレの子会社であるバップが同年に発売した「ジャイアンツ栄光の5000勝永久不滅版」に収録された。 |
| 1960年代後半には、「投手分業制」を提唱する近藤貞雄コーチの勧めで抑え投手となり、中日で初めて本格的なリリーフエースとなった。 |
| 板東が現役だった当時の日本では「リリーフ=敗戦処理」の考えが根強く、抑え投手の重要性がそれほど認識されていなかったこと、また同じ時期に「8時半の男」として注目を集めていた宮田征典(巨人)の陰に隠れてしまったことは、板東にとって不幸であった。 |
| 現役時代の映像がほとんど残っていないのは、板東にとってトークのネタであると共に悔恨事でもある。 |
| そのため島田紳助からは「板東さんは『僕はプロ野球で77勝した』なんて言っているが、ほとんどがオープン戦やら高校時代の勝ち星で、本当はプロで4勝ぐらいしかしなかった」とネタにされている。 |
| 板東自身は「当時セーブ制度があれば100セーブはしていた」と語ったこともある。 |
| なお、現役時代の映像が少ない中で、打者としてバッターボックスに立つ映像が残っている。 |
| また辛うじて写真がベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」別冊に写っている。 |
| しかし特に肘を故障して球威が落ちてからはリリーフ失敗も増え、板東がリリーフとしてマウンドに登場するとネット裏にいた観客から、板東自身と板東を起用した近藤コーチに対し「くそたわけ」などと野次る声が聞こえた。 |
| 怒った板東はきっちり抑えると一目散にネット裏に向かい、ネットをよじ登って野次の主のいる方向へ散々唾を吐きかけた。 |
| ふと隣で同じようにネットによじ登って唾を吐き飛ばしている者がいることに気づき、横を見るとそれはコーチの近藤であったという。 |
| 後日この行為に対して、制裁金5万円が課された。 |
| なお、板東は引退時の監督だった水原については著書で「名将といわれるが、監督として優れたものは何一つなかった。 |
| あったのは頑固さだけだ」と語るなど尊敬できない人物としているが、自分の生き残る道を模索してくれた近藤には引退後も頭が上がらなかった。 |
| のちにフジテレビの「プロ野球珍プレー好プレー」の司会を務めた際、ゲストとして呼ばれた当時日本ハム監督だった近藤に「あのような(個性的な選手がそろった)チームをまとめるのは大変でしょう」と話題を振ると、近藤は「全然平気。 |
| だって板東君を使えていたんだもん」と答え、板東は赤面して恐縮する場面もあった。 |
| その時、一緒に司会をしていた島田紳助に「この際だから聞きましょう。 |
| この人いつも77勝したって威張ってるんですが、どんなピッチャーだったんですか?」と問われ、近藤は「はっきり言ってボールは2流だった。 |
| 1966年8月26日の巨人戦にリリーフ登板し、塩原明を1球でショートゴロに打ち取って降板。 |
| これによりプロ野球史上2人目、セ・リーグ初の1球勝利投手に輝いている『板東英二金曜生BANBAN』で複数回語っている。 |
| 2009年7月13日放送の『痛快!明石家電視台』(毎日放送)でクイズの問題になった。 |
| 1967年は好調で、巨人戦のリリーフもほとんど成功していたが、下位のサンケイ戦で再三打ち込まれ特にルー・ジャクソン、デーヴ・ロバーツを苦手として、サンケイのJR砲は巨人のON砲より上だと公言していた。 |
| 後述するように肘の故障のために現役生活は短かったが、板東は「王と長嶋がいなければ、もっと長くやれたと思う」とテレビで語ったこともあり、タレント転向間もない頃はテレビ出演の際「王と長嶋に打たれたためにここにいる板東です」と自己紹介することもたびたびあった。 |
| ある試合で長嶋と対戦した際、長嶋は板東が投げた瞬間に「しまった」と思うほどのど真ん中の甘い球を見送り、「なんだ、今のは魔球か?」と叫んだ。 |
| うなだれる板東に向かい、長嶋は「魔球だ!魔球だ!」とはしゃぐようにベースを一周していたといい、板東は「あれには心底まいった」と述懐しているこの逸話は玉木正之「プロ野球大事典」(新潮文庫)にも記されている。 |
| オープン戦ながら後のヤンキースの名物コーチとなったドン・ジマー(当時東映)とも対戦したことがある。 |
| アニメ『巨人の星』で、中日・星一徹コーチが名を挙げて賞賛したことでも知られる。 |
| 実際は、大リーグから来日して日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめるために、板東・星野仙一と山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。 |
| 板東によれば、右肘は高校時代から悪く、「肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。 |
| 1968年に右肘軟骨除去手術を受けるも、翌年1969年限りで自由契約となり引退。 |
| ほかにシュート、スライダー、チェンジアップも投げたが、カーブは苦手だった。 |
| 偶然写真に、自生していたモルヒネと阿片の原料となるケシの花が写っていたためである(板東はケシと知らずに育てていた)。 |