| 天正11年(1583年)、京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。 |
| 父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる宮崎(1994)。 |
| 幼少の頃から秀才として謳われ、文禄4年(1595年)、京都建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して慶長2年(1597年)家に戻った。 |
| その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた。 |
| 家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した。 |
| 独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩(せいか)と出会う。 |
| それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。 |
| 羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。 |
| 羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった |
| 家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした石田(2004)。 |
| 羅山は才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのである。 |
| 180px|right|thumb|方広寺の鐘銘。 |
| ファイル:Graveofhayashifamilyichigayayamabushichoshinjukutokyo2009.JPG|right|180px|thumb|林氏墓地。 |
| 林羅山をはじめ一族が眠っている。 |
| 国の史跡に指定されている。 |
| 内部は11月初旬のみ公開されている。 |
| 慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。 |
| この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。 |
| この論争は林羅山がハビアンを論破する形で終わり、その後ハビアンは信仰に動揺を来たし、後の棄教につながっていく。 |
| 慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。 |
| また、この年、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠(家康の3男)に講書をおこなっている。 |
| また、慶長19年(1614年)の大坂の役に際しては方広寺の梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた辻(1974)pp.210-211。 |
| さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明している。 |
| 寛永元年(1624年)、3代将軍徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。 |
| その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたっている |
| 寛永12年(1635年)には武家諸法度を起草し、翌13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にあたっている。 |
| 寛永7年(1630年)、将軍家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と孔子廟を建てて「先聖殿」と称した。 |
| のちに忍岡聖堂と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。 |
| この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の昌平坂学問所の基礎となった。 |
| また、尾張藩初代藩主の徳川義直は、羅山が羅山の私邸の一角において孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助しており、晩年は幕府より910石を給せられた岩城(1979)p.108。 |
| 徳川家の家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった。 |
| 学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献した。 |
| 博識で、学問書だけでなく紀行書を著すなど文人としての活躍ぶりも多彩である。 |
| 羅山は幕府に対しては僧侶の資格で仕えながら、仏教批判をおこなっている。 |
| なお、林家当代の主が大学頭(だいがくのかみ)と称したのは羅山の孫の3代林鳳岡の代からであり、以後林家は代々幕府の教学の責任者としての役割を担い、駿河文庫の管理もおこなった。 |
| 明暦2年(1656年)には最愛の妻を亡くしている。 |
| 翌1657年、明暦の大火によって邸宅と書庫を焼失し、その4日後に死去した。 |
| 書庫が焼失した衝撃と落胆で命を縮めたともいわれている。 |
| 墓は東京都新宿区市谷山伏町にある。 |
| 幕府による羅山の登用は、儒学者の社会的地位の向上に大きな役割を果たしたといえる。 |