| 麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。 |
| 養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎・佐世保・下関と変わった。 |
| 喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方の木賃宿を転々した。 |
| 1916年(大正5年)(13歳)、尾道市に暫く落ち着き、翌年、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。 |
| 1918年(大正9年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。 |
| 図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。 |
| 女学校の教諭も文才を育んだ。 |
| 18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。 |
| 尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。 |
| 1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。 |
| 翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。 |
| 9月の関東大震災を、3人は暫く尾道や四国に避けた。 |
| この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。 |
| 1924年、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。 |
| 壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、小野十三郎、辻潤、平林たい子らを知った。 |
| 同棲しては別れることを繰り返した。 |
| 詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。 |
| 原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。 |
| 1926年(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん) |
| 緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。 |
| 1928年(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。 |
| その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。 |
| 『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。 |
| 印税で中国へ一人旅した。 |
| 講演会などの国内旅行も増えた。 |
| 1931年11月、朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅した。 |
| 既に満州事変は始まっていた。 |
| 金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。 |
| ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。 |
| 旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。 |
| 1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。 |
| 1937年の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地に赴いた。 |
| 1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』の紅一点として従軍し、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りした(『戦線』、『北岸部隊』)。 |
| 「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署が留置したのは的外れで、芙美子は思想ではない行動の人だった。 |
| 「おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年には北満州と朝鮮に行った。 |
| 1941年には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。 |
| 『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分を受けた。 |
| 日米交渉が難航していた。 |
| 太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、報道班員として仏印・シンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。 |
| 戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。 |
| 暫く二階を借りた民家が、 |
| 下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。 |
| 自由に書ける時代を喜んだ。 |
| 用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。 |
| かって原稿の売り込みに苦労して、人気作家になってからも執筆依頼を断らぬ芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。 |
| 1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。 |
| 1951年(昭和26年)、6月26日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌27日払暁心臓麻痺で急逝した。 |
| 『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。 |
| なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「林芙美子さんを囲んで」に出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。 |
| 葬儀委員長の川端康成が、『故人は、文学的生命を保つため、競争相手の進出を妨害することがあった』など、挨拶の中で触れたという新潮日本文学アルバム34、(1986)p.73。 |
| 旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。 |
| 2010年2月、桐野夏生が評伝小説『ナニカアル』を上梓している桐野夏生『ナニカアル』新潮社、2010年2月、ISBN978-4104667031 新潮社のキャッチフレーズは「林芙美子の秘められた愛を描いた」。 |