| 同年9月場所に12勝3敗、優勝決定戦では平幕の明武谷は倒すが大鵬に敗れ優勝はできず、星数も直前3場所で33勝と全くの不足ではあるが大鵬とともに横綱昇進を果たした。 |
| 史上4例目の横綱同時昇進である。 |
| 歴代の柏戸には大関はいるが横綱は初めて吉田司家以外から免許授与の話が出た力士としては柏戸利助がいるが、吉田司家に遠慮して断わったという。 |
| である。 |
| 時に22歳9ヶ月、大鵬とともに照國の最年少昇進記録を上回った(現在は歴代5位)。 |
| ともあれこれで太古の白鳳時代を捩った「柏鵬時代」も本格的に展開するとみられていた。 |
| ところが昇進後は怪我や病気で休場続きで、4場所連続の休場から再起をかけた1963年9月場所には解説玉の海の「柏戸に勝たせたいねえ」の声が聞こえたか大鵬との千秋楽全勝決戦を制して全勝で昇進後初となる2度目の優勝。 |
| これ以上はない見事な復活に日本中が感動し、柏戸は支度部屋で号泣した。 |
| だが、この取組をみた石原慎太郎が、新聞に八百長の疑惑を寄稿した。 |
| 大鵬自身はビデオを見て自分の驕りだったとは感じたが勿論激怒し、時津風理事長の問いに対し「絶対に八百長はやっていない」と断言した。 |
| これを受け、協会は石原を告訴する準備をした。 |
| この件は石原側が謝罪する事で和解した。 |
| ただし高鐵山は後に自著『八百長』の中で石原発言を支持し「初めて大掛りな注射相撲をしたのが柏戸さん。 |
| 」と記している。 |
| 皮肉にもこの件で大鵬と柏戸の仲は良くなった。 |
| 翌1964年3月場所で再び大鵬と千秋楽全勝決戦となったが今度は大鵬が勝った。 |
| その後も病魔に付きまとわれて好不調の波が激しく休場も多かったため優勝回数が伸びず連覇はなかった。 |
| しかも後から横綱に昇進した同い年の栃ノ海や佐田の山が先に引退してしまい、自分が引退すれば横綱は大鵬だけになるなどの事情からすぐには引退できず現役を続けていたが晩年は肝臓や腎臓を病み成績不振も多かった。 |
| 故障も多く時津風理事長が「柏戸の体は瀬戸物でできているみたいだ」と嘆いたこともある。 |
| 優勝回数こそ5回で大鵬の32回と比べると少ないように見えるが、横綱を務めること約8年で在位47場所(歴代6位)、優勝に準ずる成績を残すこと15回で勝率も低いとはいえない為、大鵬との相性のよさを差し引いても当時を知る人の中では柏戸を「弱い横綱」と評する人は少ない。 |
| 大関時代までの大鵬にとっては最強の壁であり大関時代までは柏戸7勝、大鵬3勝だった。 |
| その後大鵬が勝ち込み10勝10敗で並んでから16勝16敗までは全く雁行し、真に両雄伯仲の柏鵬時代を顕した。 |
| 「優勝大鵬、対戦柏戸」と言われたが最後は5連敗し、通算対戦成績は柏戸16勝、大鵬21勝。 |
| (一方大鵬の弟弟子、麒麟児を苦手とし、通算成績でも8勝9敗で負け越している)。 |
| 下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。 |
| ;柏鵬両雄の千秋楽優勝圏内の対戦は、5度実現した。 |
| (そのうち、相星決戦は2度で全勝対決である)。 |
| ;上記の場所において、柏戸は、1963年9月場所を除いて、全て優勝同点もしくは準優勝である。 |
| また、当時は系統別で割が組まれたが柏戸だけは孤立無援、土俵入りでは露払いも太刀持ちも他の一門(例えば時津風一門、現在では同門だが当時は別だった)から借りていた。 |
| 弟弟子の藤ノ川が入幕するまで同門が幕内に1人もおらず横綱以下役力士全員と戦わねばならないなどの不利もあったがこれを考えてもやはり立派な成績だといえる。 |
| しかし引退の記者会見では『柏鵬時代などと言われたが、むこうは成績も立派で自分は怪我も多く優勝回数も少なく恥ずかしかった。 |
| 2人の全盛期、後に大鵬が自伝のタイトルにも使った「巨人、大鵬、卵焼き」に対して「大洋(阪神という説もある)、柏戸、水割り」という言葉があった(因みに、柏戸は海老の天麩羅が大好物で一度に130匹食べたことがあるという)。 |
| 子供ウケの大鵬に対して大人ウケの柏戸という意味があったらしい。 |
| その大人ウケしたという取口は立合いから左前褌右おっつけで一気に突進するというもので土俵際でも慎重に腰を落とすという定石をも無視し、一気に長身を利用し覆い被さるように相手を押し倒すという豪快なもので、相手が横に動くとあっさり負けることもあったがその破壊力は誰からも恐れられていた。 |
| 若乃花でさえも横に動いて突進をかわしての投げで決めたことがあったというからその凄さがわかるだろう。 |
| その若乃花も柏戸に初めて敗れたことで引退を本格的に考え始めたとされている。 |
| また四つ相撲が全く駄目というわけではなく、得意は速攻だったが組んで動きが止まってもそれなりの力は発揮した。 |
| 若き日は「角界のサラブレッド」とも呼ばれていたが、体が硬く性格も無器用なことから師匠伊勢ノ海は徹底して速攻を仕込んだといわれ、本人も「マゲを切るまで突っ走る」思いで速攻にこだわった。 |
| ただしその取り口ゆえかポカが多く強い時には誰にも止められなかったが弱い時には思わぬ相手に負けることもあり好不調の波が激しかった。 |