| 信勝の死後、罪を許され、信長の家臣となった。 |
| しかし、信勝に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や美濃斎藤氏攻めではもちいられなかった。 |
| 上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の内として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。 |
| 信長とともに岐阜に引き上げるが、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆による本國寺の将軍・足利義昭襲撃(本圀寺の変)の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。 |
| 元亀元年(1570年)1月、信長は義昭に将軍権限を奪う条書を認めさせ、3月には朝廷より天下静謐権を与えられる。 |
| 5月、六角義賢が琵琶湖南岸に再進出し、岐阜への道を絶ったため、南岸確保に城付きの4人の武将の内として長光寺城に配属され、下旬には戦闘となったが、佐久間信盛と共に撃退した。 |
| 元亀2年(1571年)、最初の長島攻めに参加するが戦局不利で攻撃をあきらめて退却する。 |
| 勝家は殿を努めるが困難を極め負傷し旗指物を奪われた。 |
| このため、氏家直元(卜全)に交代するがその氏家が戦死する(長島一向一揆)。 |
| 天正元年(1573年)2月、信長と将軍・義昭が対立して石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家を含めた4武将が攻撃してこれらを陥落させた。 |
| そして4月、信長出陣のもとに信長に反抗的な上京に勝家が総司令官として放火させ焼き払わせた。 |
| だがまたもや義昭は槙島城に立てこもるが勝家も加わった7万という総力戦で降伏させた。 |
| やがて義昭は追放され室町幕府は滅びるが、毛利氏に保護された義昭により信長包囲網が敷かれると、織田軍の有力武将として近江・摂津など各地を転戦する。 |
| 9月の越前の朝倉義景攻めは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。 |
| 北近江の浅井長政攻めなどにも参加したが、羽柴秀吉が先鋒を務めた。 |
| この直後に長島攻めに参加するが、船の調達が思うようにいかず、一揆勢の奇襲にも苦しめられ、またも退却することになった。 |
| 天正2年(1574年)7月、3回目の長島攻めに参加。 |
| 三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮する。 |
| 砦を陥落させ一揆勢を長島城等の城に逃げ込ませて2ヶ月間の兵糧攻めの末、一揆勢が和解に応じたところを銃撃し兵で襲撃して殲滅。 |
| 残った屋長島と中江の二城も周囲に柵を築いて火攻めにし、男女2万人を焼き殺した。 |
| 天正3年(1575年)には高屋城の戦い、長篠の戦いにも参加する。 |
| 朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護としたが、同じく朝倉旧臣の富田長繁が内乱に一向一揆を誘って前波を殺した。 |
| 一揆勢は富田にも襲いかかり、動乱の中で富田は家臣に射殺され越前は一揆持ちの国となっていた。 |
| 信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を平定。 |
| 勝家は越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を対上杉謙信最前線の司令官役として与えられた。 |
| この際、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀の平定を任され北陸方面軍総司令官となった。 |
| その代わり、従前の領地近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている。 |
| (『信長軍の司令官-武将たちの出世競争』谷口克広 中公新書 中央公論社より)。 |
| 天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出してきた。 |
| 勝家は七尾城の救援に向かうが、間に合わずに七尾城が陥落してしまい、撤退中に手取川で上杉謙信に襲撃されてしまった。 |
| 『戦国佐久間一族』楠戸義昭ISBN978-4404031556勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突し、仲違いしたため、秀吉が戦線を離脱した。 |
| 天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。 |
| 天正8年(1580年)11月、加賀一向一揆を制圧して、さらに能登・越中にも進出を果たした。 |
| また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。 |
| 翌天正9年(1581年)2月28日、信長の京都馬揃えでは配下の前田利家ら越前衆を率いて、上洛し、参加した。 |
| また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている(伊達治家記録など)。 |
| 天正10年(1582年)、上杉氏方の越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死する。 |
| しかし勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向かうことができなかったさらに取り返した越中で上杉家に隙を突かれ、一部を失った。 |
| 『信長軍の司令官-武将たちの出世競争』谷口克広 中公新書 中央公論社『織田信長合戦全録-桶狭間から本能寺まで』谷口克広 中公新書 中央公論社。 |