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つながりの強いひと
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小沢治三郎
大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍中将。最後の連合艦隊司令長官。宮崎県児湯郡出身。 |
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栗林忠道
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。長野県埴科郡旧西条村(現:長野市松代町)出身。小笠原兵団長(兼第109... |
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古賀峯一
日本の海軍軍人。太平洋戦争において殉職した第28代連合艦隊司令長官である。最終階級は海軍大将。殉職後は特旨により元帥号を授与される。佐賀県西松浦郡出身。 |
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源田実
源田実(げんだみのる、源田實、1904年(明治37年)8月16日-1989年(平成元年)8月15日)は日本の広島県山県郡出身の大日本帝国海軍軍人、航空自衛官、政治家... |
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田中将
日本のアニメーター。広島県出身。アート ランドに所属していた。 大学を卒業後、代々木アニメーション学院アニメ科を経て、 アニメ業界入りした。あだ名はジ... |
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木村昌福
日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれ... |
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新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死す... |
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南雲忠一
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宇垣纏
宇垣纏(うがきまとめ、1890年(明治23年)2月15日-1945年(昭和20年)8月15日)は日本海軍の軍人。岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市)出身。太平洋戦争開戦時... |
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神重徳
日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。鹿児島県出水市出身。 |
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栗田寛
祖父
幕末水戸藩に仕えた国学者・歴史学者。『大日本史』において最後まで未完であった「表」「志」を執筆した。号は栗里。幼名は八十吉。初名は利三郎。栗田健男... |
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井上成美
日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。宮城県仙台市出身。親英米派(条約派)の米内光政、山本五十六の人脈に属し、日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反... |
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藤田東湖
祖父 師匠
江戸時代後期に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。 |
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会沢正志斎
祖父 師匠
日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者。水戸学の代表的思想家。父は会沢恭敬で長男、母は根本重政の娘。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎。 |
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山下奉文
日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将である。官位は陸軍大将従三位勲一等功三級。 |
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米内光政
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣... |
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嶋田繁太郎
大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大将。東京都出身。 |
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西村祥治
大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。秋田県出身。 |
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プロフィール
- 栗田健男とは
- 経歴
- 海軍時代
- 戦後
- 評価
- 謎の反転
- 伊藤正徳の取材と「疲れていた」発言
- 批判
- 擁護
- 発言録
栗田健男(くりたたけお、1889年4月28日-1977年12月19日)は日本海軍の軍人(海軍中将)。茨城県水戸市に生まれる。旧制水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)、海軍兵学校(38期)卒業。
経歴
| 水戸藩士の家に生まれる。 |
| 祖父は藤田東湖、会沢正志斎の弟子で東京帝大教授栗田寛文学博士、父は漢学者で大日本史編集員であった栗田勤。 |
| 遥かな祖先は清和源氏に連なると言うが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。 |
| 父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたと言う。 |
| 伊藤正徳によれば、青少年時代は学問は出来、なによりも頑張りやその上に高い人格を持っていたという伊藤正徳『世界大海戦史考』(1943年)。 |
| 兵学校を149名中28番半藤一利編『日本軍艦戦記』文春文庫ビジュアル版、明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』原書房で卒業。 |
| 兵科将校として駆逐艦長や軽巡洋艦艦長、海軍水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任。 |
| いわゆるエリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ずに司令長官に就任した数少ない人物の一人である児島襄『指揮官』(上)「栗田健男」、文春文庫。 |
| なお乙種学生として4ヶ月ほど海大で教育を受けている『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版が、海大乙種は同期生の約8割が進み、高等数学など主に普通学を学ぶ課程である『井上成美』「初級将校から大尉まで」井上成美伝記刊行会、実松譲『海軍大学教育』「海大六十年の歩み」光人社NF文庫。 |
海軍時代
| 1910年7月18日海軍兵学校卒業38期。 |
| 1916年水雷学校普通科、砲術学校普通科を経て12月より海軍大学校乙種学生。 |
| 1917年12月水雷学校高等科卒。 |
| この間、第五戦隊参謀、矢風、羽風水雷長、時雨、追風艦長、第四戦隊参謀、水雷学校教官などを歴任。 |
| 1932年12月1日大佐。 |
| 第十二駆逐隊司令官。 |
| 1934年11月15日阿武隈艦長。 |
| 1935年11月15日水雷学校教頭。 |
| 1937年12月1日金剛艦長。 |
| 1938年11月15日少将。 |
| 第一水雷戦隊司令官。 |
| 1939年11月25日第四水雷戦隊司令官。 |
| 1940年11月1日第七戦隊司令官。 |
| 太平洋戦争開戦時は第七戦隊司令官として最上型重巡洋艦4隻を率い、バタビア沖海戦、セイロン沖海戦に参加。 |
| 1942年5月1日中将。 |
| 6月ミッドウェー海戦に参加。 |
| 7月12日第三戦隊司令官。 |
| 金剛型戦艦を率い、10月ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦、南太平洋海戦に参加。 |
| 8月9日第二艦隊司令長官兼第四戦隊司令官。 |
| 11月ろ号作戦に伴いブーゲンビル島逆上陸支援のため第二艦隊主力を率いてラバウル入泊した際にラバウル空襲に遭遇した。 |
| この年勲一等瑞宝章を受章。 |
| 6月マリアナ沖海戦に参加。 |
| その後栗田の指揮する第二艦隊は一旦本土に戻ったものの、燃料事情を考慮してスマトラ島のリンガ泊地に移動し捷号作戦に備えた艦隊訓練に当たった。 |
| 10月にはレイテ沖海戦で第一遊撃部隊を指揮し、潜水艦の襲撃、シブヤン海海戦を経て艦隊は大損害を受けた。 |
| その後生起したサマール沖海戦にて敵機動部隊うち一つを撃滅したと誤認、北方機動部隊を求め反転した後、作戦目的であった輸送船団攻撃を果たさず帰投した。 |
| この行動は後に「謎の反転」と呼ばれることになり、現在でも同海戦について語られる際には大きな議論の対象となっている(経緯・論議の詳細はレイテ沖海戦を参照)。 |
| 12月23日出仕。 |
| 1945年1月10日参内、昭和天皇他よりレイテ沖海戦での功績によりねぎらいの言葉等を下賜される。 |
| 同月15日海軍兵学校校長となり、終戦まで同職に留まる。 |
| 10月5日予備役。 |
| なお当時の兵学校は年毎に採用者が急増し、76期から78期はそれぞれ4000名も在籍していた。 |
| そのため江田島の校舎だけでは到底収容できない状況であったが、元生徒には好印象で映っている例もある。 |
| 78期の大岡次郎は栗田を「不世出の大提督」「類希なる名将・勇将」と絶賛しており、晩年関西に住んだ栗田とも家が近かったという。 |
| 77期の鎌田芳朗は栗田につき「敗軍の将ではない」と述べている『海軍兵学校物語』「栗田校長のころ」原書房1979年。 |
戦後
| 終戦直後、占領軍は戦史編纂の準備の為もあり、米国戦略爆撃調査団、日本海軍技術調査団、GHQ参謀第二部歴史課GHQ参謀第二部歴史課は元々戦時中にアメリカ陸軍省が戦史編纂を命じたことに端を発して組織されているが、実際にはマッカーサーが自身の功績を記録するため製作した『マッカーサー戦史』の編纂のための機関となっていった。 |
| 「解説」『GHQ歴史課陳述録 終戦史史資(下)』原書房 2002年など幾つかの組織をつくって多くの政治・軍事関係者へのインタビューを行った。 |
| 栗田もその際かなりの質問を受け、その量は小沢よりも遥かに多い。 |
| その回答が記録に残された。 |
| このうちGHQ参謀第二部歴史課が記録した分の一部同書「解説」には「陳述録の重要部分」を網羅と書かれている。 |
| 全部ではないのは紙幅の関係によるという。 |
| は後に『明治百年叢書』の一環で原書房より刊行されたもっとも、GHQ参謀第二部歴史課の聞き取りについては『証言記録太平洋戦争 終戦への決断』サンケイ新聞出版局編(1975年)や同じ企画の『証言記録太平洋戦争 作戦の真相』等にて一部は紹介されていた。 |
| 戦後は自宅で筆耕の内職を行っていた。 |
| ただし、亀井宏によれば軍人恩給から外されることはなかったようで、また、第1次ソロモン海戦での行動を批判されていた三川軍一とは仲が良かった。 |
| ジャーナリズム関係、特に物を書く人間に対しては、厳しい態度を崩さなかったと言う亀井宏「敗北提督たちの戦後史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』。 |
| 同様の内容は『レイテ沖海戦1944』での戦後の栗田の描写でも取り上げられ、大岡次郎へ自身の伝記を書くよう薦めた際に、「雑誌記者は信用できない」とも述べている。 |
| マスコミはもとより海軍関係の訪問者にも固く口を閉ざす事が多かったが戦後10年余りを経過し小柳などが著書を出版する中、『丸』昭和32年11月号で栗田の証言が掲載されている。 |
| その後、戦史研究家の児島襄がレイテ沖海戦について取材を行った際、同じ海兵38期の土田斉の助力により3回に渡っての取材が実現、取材を纏めた『悲劇の提督』では他の第二艦隊幹部と共に多くの証言を残した。 |
| 水交会が復活してからは寄稿も行った『海軍の回想』第23号 栗田健男他2名なおその前号は三川である。 |
| 亀井自身も昭和40年代後半に取材を試み、失敗したと述べているが、その頃太平洋戦争を題材にしたテレビアニメ『アニメンタリー決断』が放送されており初回放送は1971年4月-9月。 |
| 、新名丈夫はその企画中で発行された『決断 VOL.3』にて栗田との会見に成功した。 |
| 一方二年に一度、靖国神社への参拝を欠かさなかった。 |
| 家族に対しても海軍時代のことは一切語らず、孫には優しく接し、叱ることをしなかった。 |
| なお妻は佐藤脩の妹である。 |
| レイテ沖海戦にまつわる推理本が世に出回るようになると、孫の目にはプライドを傷つけられているように見えたのだという。 |
| 『レイテ沖海戦1944』によれば「もうどこかへいってしまいたい」という発言していたとされる。 |
| 1977年12月19日兵庫県西宮市にて死去。 |
| 栗田の死後30年余り、日本のジャーナリスト、マスメディアの記者などで、軍事専門家を含めて、既存資料のうち良く知られたものを中心に素材集めを行い、それらに拠って栗田の海軍時代の行動を論評した者は数多の人数に上る。 |
| エヴァンはニューズウィーク記者の高山秀子をパートナーとして関係者への働きかけを行い、栗田の遺族や旧交を持つ関係者などとの会食、取材が実現した。 |
| その成果は『レイテ沖海戦1944―日米四人の指揮官と艦隊決戦』として書籍化されたただし占領軍、児島などをはじめとする栗田の他の多数の発言を記録した証言については『レイテ沖海戦1944』は殆ど紹介せず、戦後寡黙を貫いたように随所で描かれている。 |
評価
| 駆逐艦艦長6回、駆逐隊司令3回、水雷戦隊司令官2回、戦隊司令官2回『日本海軍史』(第9巻)、『日本陸海軍総合事典』など、戦前から水雷屋として多くの経験を積んだベテランであった。 |
| 艦隊勤務が多い「車曳き」であり、奉職した34年間の内陸上勤務は水雷学校学生、教官、教頭時代と2回の病気(痔、胃アトニー)の際の9年間である。 |
| 開戦時からの経歴を辿っても、海軍が事実上壊滅して指揮出来る艦艇が無くなり海軍兵学校の校長に任じられるまでは常に前線で指揮を執り続けていた。 |
| 吉田俊雄によれば好きなものは野球であり、戦後は阪神タイガースを応援していた『レイテ沖海戦1944』。 |
| 栗田は剣道に優れ、海軍部内では居合の達人として知られた生出寿『海軍おもしろ話戦前・戦後篇』(徳間文庫・1994年)342-346頁。 |
| 「金剛」艦長時代は、大変な無作法をした初級士官を怒鳴りつけながらも許し、この士官は栗田のためなら「命は要らん」と泣きながら語った。 |
| レイテ海戦時のいでたちは白の半袖防暑服、白の長ズボン、白戦闘帽、ズックであり、白装束と言う意味ではなく、いつも通りの服装であった。 |
| 軍事評論と創作活動を共にこなす佐藤大輔は、『逆転、太平洋戦史』内の評論部分にて、レイテ沖海戦の反転の原因になった電報を栗田の頭の中に存在した幻想とし、「あらゆる罵倒を書き連ねたくなる」と述べ、作品内でも臆病、消極的と形容し不遇な扱いを繰り返した。 |
謎の反転
| 実際には、上記のように、レイテ沖海戦に限らず、多くの発言が記録されている(同海戦時「利根」艦長であった黛治夫は佐藤和正の『レイテ沖海戦』内にて「謎」という言葉自体を否定している)。 |
| しかし、下記の伊藤正徳、大岡昇平の著書と比較しこれらが参考文献に挙げられることは少ない例:谷光太郎『アーネスト・キング』内「レイテ海戦」「参考文献」には『連合艦隊の最後』はあるが上記2者を含め、小柳富次『栗田艦隊』など、当事者の言が多く収録された文献はない。 |
伊藤正徳の取材と「疲れていた」発言
| レイテ沖海戦では、パラワン水道にて最初の旗艦の愛宕が沈没した為、艦隊司令部要員は重油の漂う中を予備の旗艦に指定されていた大和に向けて移乗する事態に陥った。 |
| 1955年、伊藤正徳は反転の理由について質問し、栗田は当初韜晦していたが、「嘘を言ってはいけない」と窘め、「あの時は非常に疲れていた」と述べたという。 |
| 後年半藤は『日本海軍、錨上ゲ!』にて、この発言を引き出したのは伊藤の著書の出版を記念した伊藤宅での天ぷらを食す小パーティであったことを明らかにし、栗田を嘘つき呼ばわりしたが対談相手の阿川弘之は反論していない。 |
批判
| 「逃げ癖」など、元々戦意や士気の面で問題があったと批判され、栗田と共に戦った人物たちの中には「避敵傾向がある」「消極的」と評す者がいる例:半藤一利『指揮官と参謀』内「小沢治三郎と栗田健男」のミッドウェー海戦時の熊野艦長の証言など。 |
| 小島秀雄等は『歴史と人物』の座談会にてバタビア沖海戦としているが、同海戦では第7戦隊は接近し照射射撃を行っており、「敵と反対の方向へ航路をとっている」行動はなく、2月27日の話との混同の可能性がある。 |
| ミッドウェー海戦では重巡「最上」と「三隈」の衝突後、この2隻を置き去りにして撤退行動を続けたことが問題とされた。 |
| ヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃に関しても、連合艦隊司令長官だった山本五十六は積極性に欠ける栗田の姿勢を見て自分が大和を指揮して乗り込むと発言し、それを聞いた栗田が承諾したというエピソードが伝えられており、そのために批判されることがある。 |
擁護
| 一方机上の論理を現場に押し付け、十分なバックアップを行なわなかった聯合艦隊の責任が大きいとする意見も少なくなく、レイテ沖海戦では海戦直後に書かれた大淀の戦闘詳報にもそうした批判がある。 |
| 「大和」艦橋で栗田の判断を観察していた石田恒夫(レイテ沖海戦時、大和主計長)は、栗田の葬儀で「レイテ沖の反転は敵を求めての反転であり、長官の自信ある用兵、決断による作戦行動であったことは、かの激しい戦場にあった者のみ知るところでありましょう」と述べている岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間』(光人社、2004)160頁。 |
| 古村啓蔵(戦艦武蔵艦長)は亀井宏のインタビューに対し、レイテ沖海戦は一種の特攻であり「栗田さんほどの人を殺すためには、連合艦隊もそれ相応の挨拶があっていい。 |
| 栗田が後年その誹りを受ける原因となったのは指揮下の重巡「最上」の遠距離から放った魚雷が目標を外れて、その射線延長線上にいた味方の第十六軍輸送船団に到達してしまい、軍司令官今村均中将の座乗艦を撃沈してしまったことが挙げられる。 |
| さらに重巡洋艦「最上」と「三隈」衝突後、栗田は損傷の少ない「三隈」と艦首を失った「最上」に駆逐艦2隻(荒潮、朝潮)の護衛につけ、ミッドウェー島から南西のトラック諸島へ避退するよう命じた亀井宏『ミッドウェー戦記』556頁。 |
| 一方で、小沢は半藤に「この戦いで真面目に戦争をしていたのは西村だけだ」と述べ、それを痛烈な批判であると受け取る者も居たなお、西村祥治を大伯父にもつ英霊にこたえる会の幹部、西村修平は、栗田の判断を擁護している←2年間出典がないためコメントアウト。 |
発言録
| 石田恒夫は、栗田以下第二艦隊司令部が重巡洋艦「愛宕」(10月24日、潜水艦雷撃で沈没)から「大和」に移乗してきた時から重苦しい雰囲気だったと回想している戸高一成『戦艦大和に捧ぐ』(PHP研究所、2007)80頁。 |
| 深井、岩佐などによれば森下信衛のようにずっと黙って任務を果たしていた者、能村次郎(能村もまた回顧録『慟哭の海レイテ沖海戦』を著した)のように反転に肯定的な者、反転決定に反感を抱いた若手士官など、立場だけではなく、その態度もまた、様々であるさらに補足すれば、岩佐は反対した若手士官だけが死地に赴いたように述べているが、能村や森下なども沖縄への特攻作戦であった天一号に大和に乗り組んで参加し、九死に一生を得るなどといった高級士官の例もある。 |
| 何しろ敵空母撃滅が先入観になっていたので、それに引摺られた伊藤正徳『連合艦隊の最後』 大岡昇平『レイテ戦記』(転載)他ただし、第二艦隊参謀長であった小柳富次は1945年10月24日、GHQでの陳述にて栗田中将は幕僚会議で十分意見を述べさせたのか、それとも自分一人の所信で命令を下したのか質問された際、幕僚会議を開いて、決定は全員一致であった旨を回答している。 |
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太平洋戦争開戦時は第七戦隊司令官として最上... |
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参内、昭和天皇他よりレイテ沖海戦での功績に... |
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