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プロフィール
- 根本陸夫とは
- 概要
- 人物・経歴
- 広島時代
- クラウン・西武時代
- ダイエー時代
- エピソード
- 西武時代
- 根本マジックの影響と評価
根本陸夫(ねもとりくお、1926年11月20日-1999年4月30日)は、茨城県水戸市生まれ、那珂郡東海村のプロ野球選手(捕手)・プロ野球監督・プロ野球球団経営者(実業家)、野球解説者。元西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長。横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズの監督を歴任した 関根潤三とは日大三中時代からの親友で、選手・コーチ(途中スカウト)を通じて近鉄パールス→近鉄 バファロー→近鉄バファローズに在籍した。なお、大正生まれとしては最後のプロ野球監督経験者である(同年の12月25日から年号が昭和に変わったため)。
概要
| ニックネームは「球界の寝業師」(ドラフト会議やトレードで辣腕を振るったことから)。 |
| 根本のその仕事ぶりや、誰もがおどろくような手腕は「根本マジック」(後述)と呼ばれた。 |
| 本人は「私はつなぎ監督なので」と話していた通り、監督としては目立った成績は残っておらず、在任期間も短かったものの、球団フロントとして西武、ダイエーの初優勝の土台を築き上げた。 |
| 今日的見地では、日本プロ野球史上初といってもよいゼネラルマネージャーであったといえる。 |
人物・経歴
| 茨城県水戸市の資産家に生まれ、石神村(現東海村)に育つ。 |
| 父親の時之助は水戸市で商売を営んでいたが、根本が生まれてからは根本の祖父の事業を継承するために石神村に転居。 |
| 石神村の村長となり、隣接する村松村と合併しても村長を二期務め、在任中に日本原子力研究所の誘致を決めた。 |
| 根本は祖父から「いずれ根本家を支える人物」として目をかけられ正教の幼児洗礼を受けた。 |
| さらに祖父は学問好きだったので根本にも勉強家になることを期待し、石神村内の小学校から将来を考え、水戸市内の三の丸小学校に転校させ若い弁護士を家庭教師としてあてがうが、それが根本と野球を結びつけることとなる。 |
| この弁護士が大変な野球好きで二人で城跡でキャッチボールをしたり、中等野球や、東京六大学野球の話をよく根本に聞かせた。 |
| また、帰宅後根本は当時地方では珍しかったコンクリート二階建ての実家の壁にボールをぶつけて一人でも楽しんだ。 |
| このことにより病弱だった根本が頑健な青年となった。 |
| 地元の茨城中学に進学するも、放校処分となり、旧制日本大学第三中学校(現:日本大学第三高等学校)に移って恩師藤田省三監督に出会い、関根とともに指導を受けた。 |
| 終戦後、日本大学予科で野球を再開し、田宮謙次郎とバッテリーを組み、さらに東都大学リーグで首位打者を獲得。 |
| この時、一時立教大学にも「入っていた」ことが発覚し出場停止処分が下された。 |
| この「入っていた」というのが立教に入学してプレーしたのか、単に野球部のセレクションを受けた程度だったのか真相は不明。 |
| この出場停止処分中に母校の日大三中の監督を務めた。 |
| その後、法大監督に就任していた藤田に引き取られて法政大学へと進み(この大学間移籍に関しても終戦直後なのでルール上出来たのか、藤田の親心によってリーグが許可したのかは不明)、関根とまたバッテリーを組むこととなった。 |
| この時期、硬派学生として暴れまわり、安藤昇と知り合う。 |
| その後日本コロムビアの実業団チーム「川崎コロムビア」を経て、1952年近鉄に入団。 |
| その後はスカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄コーチ。 |
| 別当薫監督とともに「18歳の4番打者」・土井正博を育て上げた。 |
広島時代
| 1965年、1966年と岩本義行監督下で打撃コーチを務めた後、近鉄を退団。 |
| この時、近鉄の佐伯勇オーナーから今後について尋ねられ、スカウト時代から友人を通じて顧問格になっていた鉄鋼を扱う会社に転職しようと告げていた。 |
| しかし、前述の日大野球部での停止処分中に母校日大三中で監督を務めたが、その教え子の中に後にヤクルト球団参与を務める村上宏がいた。 |
| 村上の父は閣僚経験者でもある村上勇であり、その勇に見こまれた根本は産経新聞社長の水野成夫と親交を結んだ。 |
| さらに水野の友人である東洋工業の松田恒次に紹介された。 |
| この松田は根本の恩師・藤田の幼馴染であり、藤田の推薦と先述の各財界人の後押しによって1967年、広島カープの長谷川良平が監督を務める同球団コーチに就任。 |
| 上田利治は当時の同僚コーチ。 |
| 1968年、チームは「広島東洋カープ」として運営形態が変更されることになり、根本はその新体制で監督に就任。 |
| オーナーの松田恒次から「シーズン全敗でもかまわないからチームの基礎作りを」と要望される。 |
| 根本はコーチに小森光生を招聘、阪神タイガースから山内一弘を獲得し選手には猛練習を課した。 |
| また食事面でも制限を加える措置をとる等で同年、68勝62敗の3位となりカープ球団創設以来初のAクラスに導く。 |
| 翌1969年には最下位に転落するが1970年、ヘッドコーチとして関根潤三、内野守備コーチとして広岡達朗を招聘。 |
| 両者はいずれも指導者キャリアのスタートとなるが、同年と翌1971年は4位勝率5割以上と健闘し、この間衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄、三村敏之らを育成、後の赤ヘル黄金時代の礎を築いた。 |
| しかし1972年、開幕から不振が続いてシーズン途中で休養、そのまま退団した。 |
| その後は大阪の朝日放送(ABC)で野球解説者を務めた。 |
クラウン・西武時代
| 1977年のオフ、鉄鋼業を友人と営む傍ら朝日放送で解説者をしていると、安藤昇から電話が入った。 |
| 「クラウンライターライオンズの仕事を手伝ってくれ」という内容だったが、球団の本筋ではなく安藤からというのに根本は戸惑った。 |
| 球団から正式に要請がきたら受諾してほしいとクラウンライターの幹部と親しい安藤が根回しをしてきたと根本は理解し1978年、球団社長の坂井保之に招聘されクラウンライター・ライオンズの監督に就任する。 |
| ここでも就任直後から選手に猛練習を課し低迷するチームの建て直しを図ろうとした。 |
| 同年シーズン終了後に国土計画の堤義明社長が球団を買収し球団名が西武ライオンズに変更される。 |
| 根本はそのまま監督として球団に残留、西武ライオンズ時代最初の監督となる。 |
| 西武監督時代は管理部長も兼任してフロントの責任職に就任し、球団代表の坂井保之、スカウト部長の浦田直治らと共にチーム作りを急速に進めていった。 |
| 新生西武ライオンズの1978年のドラフト会議で森繁和を1位に指名。 |
| 巨人とドラフト外で松沼博久、松沼雅之の松沼兄弟の入団を巡って競争になり獲得に成功。 |
| そして阪神タイガースから田淵幸一・古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。 |
| さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。 |
| 上記の戦力補強ぶりから戦前の西武の評価はまずまずだったが、開幕から12連敗を記録し結局1979年は最下位に終わる。 |
| しかし補強の成果は着実に現れており、翌1980年の後期ペナントレースでは近鉄、ロッテ・オリオンズ、日本ハムファイターズと優勝争いを演じ話題を起こす。 |
| 1980年のドラフト会議で石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安部理の4名を指名し獲得。 |
| ドラフト外で秋山幸二を巨人との争奪戦の末に獲得に成功。 |
| そして、当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤を所沢高等学校に転校させ、西武の練習生とした。 |
| 翌年のドラフト会議で西武は伊東を1位指名した他、プロ入りを拒否して社会人野球・熊谷組への入社が内定していた名古屋電気高の工藤公康を6位で指名し、説得の末入団にこぎつけた。 |
| 根本は1981年限りで監督を退任して管理部長に専任。 |
| そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡達朗を招聘する。 |
| 1985年のドラフト会議では最大の目玉だった清原和博を根本自身がくじを引き当て1位指名に成功。 |
| 森は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝を逃したのが1989年のみ、6度の日本一に輝くなど西武ライオンズの黄金時代を築いていった。 |
ダイエー時代
| 1993年、中内功から招聘され西武ライオンズを退団し福岡ダイエーホークスの代表取締役専務兼監督に就任。 |
| 西武の黄金時代の立役者が退団して同一リーグのライバルチームの監督へ移籍する点が話題を呼んだ(波乱含みの移籍だったが、最終的に中内と西武・堤のトップ会談で堤が根本を譲る形で決まった)。 |
| 現場復帰となった1993年は最下位に終わるが、シーズン終了後は秋山幸二・渡辺智男・内山智之と佐々木誠・村田勝喜・橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。 |
| また同年から実施されたフリー・エージェント制で阪神タイガースから松永浩美を、ドラフト逆指名で小久保裕紀、渡辺秀一を獲得。 |
| ドラフトでは駒澤大学進学が内定していた城島健司を獲得し、西武の主力であった工藤をFAで獲得。 |
| 12年ぶりの現場返り咲きとなったダイエー監督時代は往年の若親分と呼ばれた熱血ぶりは影をひそめ、風貌も寝業師の異名にそぐわない雰囲気で、マウンドに行く途中に足がもつれてつまづくシーンが珍プレー特集で放映される等していたが、それでもときたま激しく抗議し退場処分を受けた事もあった。 |
| また広岡や森といった管理野球の信奉者を西武時代は監督に置いていたにも関わらずダイエーでは2番に山本和範を起用するなど大胆な采配を時として行い、森や広岡のような作戦面での細かい指示をする事もなかったという。 |
| ダイエー在任期間、吉武真太郎・小久保裕紀・渡辺秀一・城島健司・藤井将雄・斉藤和巳・佐久本昌広・井口忠仁・松中信彦・柴原洋・倉野信次・永井智浩・篠原貴行・星野順治などをドラフトで獲得し、ダイエー初優勝および現在に至る地元人気の土台を築いた。 |
| また、松永浩美・廣田浩章・武田一浩・田村藤夫・長冨浩志・西村龍次・山崎慎太郎など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。 |
| また、西武時代同様ケビン・ライマー、ケビン・ミッチェルなどの現役大リーガー選手の獲得に尽力した。 |
| 根本は日本ハリストス正教会(キリスト教・正教会)信徒であったため、遺骨は同教会本部のある東京・神田ニコライ堂に安置されている。 |
| 「今世紀最後の大トレード」と言われた、秋山幸二・佐々木誠を中心としたトレードの実行(このトレードは中内功・堤義明両オーナーにも知らされず、特に中内はその日の昼食時、ダイエー本社の社員食堂で流れていたNHKニュースのトップでこの発表を知って仰天したという)。 |
| 入団3年目の1995年オフに柳田聖人・河野亮との交換トレードで田畑一也と共にヤクルトスワローズへ移籍した。 |
| ただし、後々もめることを考慮し(事実その後駒大野球部太田誠監督は「今後ダイエーに選手を入団させない」とまで激怒した)、スカウトからの指名リストに入らなかった駒大の本間満も併せて指名、結果的に本間は2009年まで所属し現在、現役のホークスの選手では在籍期間の最も長い選手となっている。 |
| 中央球界でも名が知れ、巨人と争奪戦になっていた小久保裕紀・「今世紀最後の大型内野手」と言われた井口忠仁・アトランタ五輪日本代表の4番打者であった松中信彦などを、親会社をも動かし、逆指名制度を最大限に駆使してドラフト指名。 |
| 1999年のダイエー初優勝の際、その年の4月に根本はこの世を去っていたが、優勝した日の翌日中内功オーナーと王貞治監督から直筆の感謝の手紙が妻のもとに送られてきたという。 |
エピソード
| これは根本のかなり慎重な性格なせいでもあり、根本を生前取材していた浜田昭八は、ペンと紙を目の前に出すと本音を言わないので、いつも根本がいないところで思い出しながら取材メモを取ったという。 |
| ダイエー監督時代にズームイン!!朝!にビデオ出演した際には、司会の福留功男が「(話が)あまりにも哲学的すぎて分からない」と嘆き、地元キャスターの古賀ゆきひとも「私も(根本監督が)何が言いたいのか全然分からないんです」と困惑していた。 |
| 王監督に対して「世界の王」として一歩引いた眼で見ていた選手達に対し、球団社長就任直後の1999年キャンプイン直前、必勝祈願に訪れた福岡市の筥崎宮で、「お前達、何を構えてるんだ。 |
| 旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の戦友(お互いに「ジュンちゃん」と「ネモやん」と呼び合っていた)であり、温厚なイメージが非常に強い関根潤三の事を『関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの末恐ろしさは“インテリヤクザ”だよ』と評していた根本だが、その根本も学生時代は相当ワルだったらしい。 |
| 特に大学時代の同級生だった安藤昇と渋谷でつるんだり銀座で大暴れした事もあると言われており、根本が球界の寝技師と呼ばれる大胆な行動を取ることが出来たのは安藤との付き合いによる裏社会の人脈・情報網が影響しているとまで言われた。 |
西武時代
| 世紀のトレードの一つとされる、田淵幸一と真弓明信の交換を中心とするトレードの実行(阪神・小津正次郎社長との密室トレード)。 |
| 松沼博久・雅之兄弟の獲得においては読売ジャイアンツ(巨人)が2人で1億2000万(この金額も当時としてはドラフト1位に匹敵する破格の金額)を提示して入団にこぎ付けようとしてきたのに対して、それを上回る2人で1億5000万という破格の契約金を提示して逆転で2人の獲得に成功した。 |
| 戦力として2人を獲得したこと自体に加えて、選手の争奪戦で巨人に勝ったというのが大きな意義を持つ一件となり、さらにこの争奪戦のあと、しばらくの間読売系列の新聞・雑誌から西武グループの広告が締め出され、また西武線各駅の売店では読売系列の新聞・雑誌を取り扱わないという親会社を巻き込んだ遺恨争奪戦となった(これは松沼兄弟以外に江川事件の影響も大きい)。 |
| 特に1980年のドラフト会議で1位指名されていた川村一明(阪急ブレーブス指名)と高山郁夫(日本ハム指名)が入団拒否の上プリンスホテルに入社した件は球界にショックを与えた。 |
| 高校定時制課程在籍のため卒業までもう1年必要な伊東勤を熊本県立熊本工業高等学校から埼玉県立所沢高等学校に転校させ、球団職員として囲い込み、翌年ドラフト1位で指名。 |
| 広島の若手投手であった小林誠二を、禁止されているレンタル移籍を使用してトレードの形で獲得。 |
| (1988年のドラフトで他球団との争奪戦になることが確実視されていた)渡辺智男・石井丈裕に怪我の噂を流させ、その間隙を突いて両者をドラフト上位で指名、どちらも入団に持ち込んだ。 |
根本マジックの影響と評価
| 特に星野仙一が監督だった頃の中日('87年〜'91年)では、進学を表明していた選手の相次ぐ強行指名と翻意の実現や、落合博満の獲得に代表される積極的なトレードなどで西武とともにシーズンオフにおいて多くの話題を提供した。 |
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1965年
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1966年と岩本義行監督下で打撃コーチを務めた... |
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1969年
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最下位に転落するが1970年、ヘッドコーチとし... |
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