| 1925年、関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店市)に生まれた。 |
| 4歳の頃に奉天(現瀋陽)ヘ転居。 |
| 1930年に、祖父の死去に伴い、父が神社(九所御霊天神社)の神主を継ぐため一家で姫路へ帰国した。 |
| 米朝自身も上京前に周囲の勧めもあり、神主の仮免状を取得している。 |
| 幼少時代から落語や浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭や南地花月にもよく通っていた。 |
| 1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。 |
| 在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)(まさおかいるる)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。 |
| 正岡一門の一番弟子となった。 |
| 正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫と知り合いとなった。 |
| 1944年2月の応召直後病に倒れ、病院で終戦を迎えた。 |
| この頃、橘ノ圓都が慰問で病院に訪れ出会うことになる。 |
| 大学には復学せず、神戸市で会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていたが、矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。 |
| やがて師正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。 |
| 復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。 |
| 3代目桂米朝を名乗る。 |
| 一旦勤めを辞め米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の郵便局員として1年ほど勤務した。 |
| その後師米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。 |
| 戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座やうめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。 |
| 1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。 |
| 現在一門の多くがここに所属する。 |
| 1958年頃には朝日放送専属なり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。 |
| 一方で、落語研究家としても活動を行い、一度滅んだ噺を文献から発掘したり、落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させている。 |
| 彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。 |
| また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。 |
| 入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。 |
| 現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。 |
| 一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年-1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。 |
| 地方ではテレビの『笑点』でやっている大喜利が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。 |
| 1972年に正月と夏にサンケイホールで独演会を開催(その後も長年サンケイでは独演会を開く)。 |
| かつて身内、容、米團治が55歳で亡くなったので自身も55歳で死ぬと断言していた。 |
| 上方落語協会の会長に四天王としては唯一就任していない。 |
| 5代目文枝の自伝『あんけら荘夜話』によれば、1988年の選挙で一旦は会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている。 |
| テレビコマーシャルの出演は一切拒否しているが、『ハイ!土曜日です』でアイバンクを紹介した事が縁で、1983年放送の公共広告機構(現:ACジャパン)のアイバンクのCMに出演している。 |
| 1987年4月29日、紫綬褒章受章。 |
| 1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。 |
| 2002年の東京・歌舞伎座の口演を最後に一線を退く(2009年現在は落語会のよもやま噺やテレビ、ラジオ出演のみ)。 |
| 11月3日、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。 |
| 2007年は芸能生活60周年(米團治に入門してから数えて)であり桂米朝を祝う会等も行われ、退院以来のトリで落語「将棋小噺」を披露した。 |
| 2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹梗塞と診断され入院した |
| 11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となる |