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つながりの強いひと
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太田雅夫
太田 雅夫(オオタ マサオ) 1931年京都府に生れる。1954年同志社大学法学部政治学科卒業、同年同志社大学学生主事補、1957年立命館大学大学院法学研究科修士... |
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石橋湛山
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(... |
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菊竹六鼓
福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件に際し、福岡日日新聞の紙上で軍部批判・憲政擁護の論陣を張ったことで知られる。六鼓(六皷)は号で、本名は淳(... |
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斎藤隆夫
斎藤隆夫(さいとうたかお、1870年9月13日(明治3年8月18日)-1949年(昭和24年)10月7日)は日本の弁護士、政治家である。姓は「齋藤」とも記述する。戦前期... |
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徳田秋声
友達
石川県金沢市生まれの小説家である。本名は末雄。 |
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泉鏡花
明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家。戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎。金沢市下新町生れ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価... |
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清沢洌
ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたこと... |
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長谷川如是閑
日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著し... |
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鈴木東民
鈴木東民(すずきとうみん、1895年(明治28年)6月25日-1979年(昭和54年)12月14日)は日本のジャーナリスト、労働運動家、政治家。 |
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尾崎紅葉
日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」などの号も持つ。江戸生れ。帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を... |
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三宅雪嶺
哲学者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎。 |
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田中康夫
日本の政治家、作家。新党日本代表、衆議院議員(1期)。愛称はヤッシー。参議院議員(1期)、長野県知事(民選第15・16代)を歴任。同姓同名で獨協医科大学... |
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穂積八束
日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画。 |
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石橋忍月
石橋忍月(いしばしにんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ暦1865年10月20日)-1926年(大正15年)2月1日)は日本の文芸評論家、小説家、弁護士、政治家。本名... |
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菊池寛
小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家でもある。本名は菊池寛(きくちひろし)。 |
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養老孟司
解剖学者。東京大学名誉教授。専門は解剖学。神奈川県鎌倉市出身。 |
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皆藤愛子
日本の女性キャスター、タレント。身長158cm。血液型B型。セント・フォース所属。愛称は「愛ちゃん」。 |
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乃木希典
日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年〔大正5年〕)。家紋は「市松四つ目結い」。幼名... |
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プロフィール
- 桐生悠々とは
- 生涯
- 記者生活の開始
- 『関東防空大演習を嗤ふ』
- 個人雑誌『他山の石』
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
桐生悠々(きりゅうゆうゆう、1873年5月20日-1941年9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、文明評論家。本名は政次( まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくりひろげ、数多くの筆禍事件を引起した。特に、信濃毎日新聞の主筆として書いた「都市空襲を受けるならば日本の敗北は必至である」という、『関東防空大演習を嗤(わら)う』と題した社説で知られる。
生涯
| 金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として生まれる。 |
| 旧制第四高等学校では小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深め、1892年(明治25年)には小説家を志して共に退学・上京するなどもあったが失敗し帰郷、1895年(明治28年)にあらためて東京法科大学政治学科(現在の東大法学部)に入学、穂積八束、一木喜徳郎に学ぶ太田『評伝桐生悠々』p.11-34井出『抵抗の新聞人』p.29-53。 |
記者生活の開始
| 東京府の官吏、保険会社、出版社、下野新聞の主筆などを転々としたのち太田『評伝桐生悠々』p.35-38井出『抵抗の新聞人』p.54-55、1903年(明治36年)、大阪毎日新聞に学芸部員として入社するが満足な執筆の場を与えられず退社太田『評伝桐生悠々』p.53-56井出『抵抗の新聞人』p.68-69、1907年(明治40年)には大阪朝日新聞に転籍して、大朝通信部詰めという立場で東京朝日新聞社内で勤務、「べらんめえ」と題した匿名時事批評が評判となる太田『評伝桐生悠々』p.59-63井出『抵抗の新聞人』p.74-80。 |
| 1910年(明治43年)には信濃毎日新聞の主筆に就任した太田『評伝桐生悠々』p.66井出『抵抗の新聞人』p.84-102。 |
| 1912年(大正元年)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将をすぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著し、反響を呼ぶ太田『評伝桐生悠々』p.72-76井出『抵抗の新聞人』p.110-122。 |
| 1914年(大正3年)には、シーメンス事件に関して政友会を攻撃、信濃毎日新聞社長・小坂順造は政友会所属の衆議院議員であったため対立、退社を余儀なくされる太田『評伝桐生悠々』p.81-84井出『抵抗の新聞人』p.126-127。 |
| 同年には新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げるも、新愛知はこれまた政友会系新聞であったことと、同紙と憲政会系・名古屋新聞との激しい販売競争(皮肉にも両紙は太平洋戦争中の新聞統合で中日新聞を形成する)に疲れたこともあり退社する太田『評伝桐生悠々』p.84-96井出『抵抗の新聞人』p.127-130。 |
| 1924年(大正13年)には第15回衆議院議員選挙に無所属で出馬するも落選太田『評伝桐生悠々』p.118-120、落選後は自ら日刊新聞を発行するも1年持たず廃刊太田『評伝桐生悠々』p.120-122負債だけが残り浪人生活を数年送る太田『評伝桐生悠々』p.123-124。 |
| 1928年(昭和3年)に、当時の信濃毎日新聞主筆・風見章が衆議院議員選挙(第一回普選)に出馬すべく退社したため、悠々は同紙に主筆として復帰、再び反軍的な一連の社説を著す。 |
| もっとも悠々のこの時代の基本的な立場は、マルクシズム批判であり、これは前任者風見のもとで先鋭左傾化した信濃毎日の社内にも、昭和恐慌で疲弊しつつあった長野県の読者層にも好意的に受け止められてはいなかった太田『評伝桐生悠々』p.125-136。 |
『関東防空大演習を嗤ふ』
| 1933年(昭和8年)8月11日、折から東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、悠々は社説『関東防空大演習を嗤ふ』を執筆する。 |
| 同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災規模に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した太田『評伝桐生悠々』p.144-146井出『抵抗の新聞人』p.167-170。 |
| この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人会である信州郷軍同志会が信濃毎日の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた太田『評伝桐生悠々』p.146-149井出『抵抗の新聞人』p.170-175。 |
個人雑誌『他山の石』
| 以後の悠々はその死に至るまでの8年間を愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)にて「名古屋読書会」の主宰者として過ごした。 |
| 彼自身が紹介したいと考えた洋書を翻訳しその抄訳を会誌で頒布するという仕組みであり、悠々の言論活動は『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」に限られることとなった。 |
| 抄訳紹介にはたとえばH・G・ウェルズ、ハロルド・ラスキ、ポール・ヴァレリー、ポール・アインツィヒなどが含まれ、悠々の読書範囲の広さをうかがわせる(名古屋の丸善書店では悠々は最上顧客だったともいう)。 |
| もっとも、これら翻訳も彼自身の執筆部分も検閲の対象であったから、○○○、×××といった伏字や白紙化されたページが『他山の石』を埋めることもしばしばであった太田『評伝桐生悠々』p.150-205井出『抵抗の新聞人』p.178-214。 |
| 1941年(昭和16年)9月10日、太平洋戦争開戦を3ヶ月後にひかえて桐生悠々は喉頭癌のため68歳で逝去。 |
| その直前、死期を悟った悠々は『他山の石』廃刊の挨拶を作成したが、これもまた数年後の日本の敗戦に対する正確な予言となっていた。 |
| 下記中公文庫版p.264より引用。 |
| 句読点は引用者、一部かな書き化。 |
| (前略)さて小生『他山の石』を発行して以来ここに八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が(中略)時たまたま小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成、やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も、ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候。 |
| 昭和十六年九月日他山の石発行者桐生政次」。 |
参考文献
| 井出孫六著『抵抗の新聞人桐生悠々』岩波新書、1980年、ISBN4-0042-0123-3。 |
| 太田雅夫著『評伝桐生悠々』不二出版、1987年。 |
| 桐生悠々著『畜生道の地球』中公文庫(ISBN4-1220-1650-9)。 |
| 前坂俊之著『太平洋戦争と新聞』講談社学術文庫2007(ISBN9784061598171)。 |
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桐生悠々さんについてのひとこと紹介
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