| 明治6年11月、鹿児島へ帰った桐野は、鹿児島郡吉田郷本城村字宇都谷(現在の鹿児島市本城町)にある久部山の原野を開墾して日を過ごした。 |
| 明治7年(1874年)、辞職軍人有志の発議で鹿児島の青少年の教養のために私学校がつくられたとき、篠原国幹が銃隊学校、村田新八が砲隊学校・賞典学校(幼年学校)を監督し、桐野は翌年つくられた吉野開墾社を指導して、率先して開墾事業に励んだ。 |
| 同年の台湾出兵ののち石川県士族・石川九郎・中村俊次郎が桐野を訪ね、明治六年政変および台湾出兵の内情について質問したときの応答「桐陰仙譚」が新聞『日本』及び『西南記伝』上巻に残っている。 |
| 明治10年(1877年)2月6日、火薬庫襲撃事件・中原尚雄の西郷刺殺計画を聞いて開かれた私学校本校での大評議は、桐野主導で議論され、大軍を率いて北上することに決した。 |
| 出兵のために池上四郎が募兵、篠原国幹が部隊編制、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、桐野は各種軍備品の収集調達を担当した。 |
| 2月13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、五番大隊指揮長に池上四郎、六番・七番大隊連合指揮長に別府晋介が選任され、桐野は四番大隊指揮長となり、総司令を兼ねた。 |
| 2月20日、先発した別府晋介の部隊が川尻に着し、熊本鎮台偵察隊と衝突し、西南戦争(西南の役)の実戦が開始された。 |
| 22日、相次いで到着した薩軍の大隊は熊本鎮台を包囲攻撃した。 |
| 桐野は池上とともに正面軍を指揮したが、熊本城は堅城ですぐには陥ちなかった。 |
| 本営軍議で桐野・篠原らが主張する全軍攻城論と池上四郎・野村忍介・西郷小兵衛らが主張する種々の分進論が折り合わず、軍議が長引いている間に、政府軍の第一旅団(野津鎮雄)・第二旅団(三好重臣)の南下が始まった。 |
| これに対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山に海岸線を抑えさせ、篠原(六箇小隊)が田原に、村田・別府(五箇小隊)が木留に進出し、桐野は自ら三箇小隊を率いて山鹿に向かい、政府軍を挟撃して高瀬を占領しようとしたが、互いに勝敗あって戦線が膠着した。 |
| 3月20日の田原の戦い、4月8日の安政橋口の戦いで敗れ、4月14日、薩軍(党薩各派を含む)が熊本城の囲みを解いて木山に退却したとき、桐野は殿となり二本木で退却軍を指揮した。 |
| 4月21日、薩軍は矢部浜町に退却し、西郷・桐野・村田・池上らが軍議して薩隅日の三州盤踞をなし、機を見て攻勢に転ずると方針を定めた。 |
| 4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は江代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、新たに編制した中隊を各地に派遣した。 |
| 以後しばらく桐野は人吉本営で指揮していたが、戦況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴き、5月28日、宮崎支庁を軍務所と改称して根拠地とした。 |
| ここでは桐野の命で軍票(西郷札)がつくられ、逼迫した軍の財政の立て直しが試みられた。 |
| 7月24日に村田指揮部隊が都城で大敗し、7月25日に始まった宮崎の戦いが31日に敗れると、桐野は西郷を追って高鍋に赴いた。 |
| 8月3日、桐野は平岩、村田は富高新町、池上は延岡にあって諸軍を指揮したが、美々津の戦で敗れた。 |
| 8月13日、14日、桐野・村田・池上らは長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、延岡の戦いで別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗北し、延岡を総退却して和田峠に依った。 |
| 早朝、西郷隆盛自ら桐野・村田・池上・別府らを随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。 |
| 8月17日夜12時頃、西郷に従い、可愛嶽(えのたけ)を突囲した。 |
| 突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田新八、後軍は中島健彦・貴島清が率い『大西郷突囲戦史』に依る。 |
| 9月1日、突囲した薩軍が鹿児島に入り、城山を占拠した。 |
| 一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が9月3日に城下の大半を制し、9月6日には城山包囲態勢を完成させた。 |
| 9月19日、桐野に内緒で山野田一輔・河野主一郎が西郷救命の軍使となって参軍川村純義のもとに出向いたとき、桐野は激怒したと伝えられる。 |
| 9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。 |
| 途中で西郷が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦するも、味方は相次いで銃弾に斃れ、または刺し違え、或は自刃した。 |
| 明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)に正五位を追贈されて名誉回復した。 |