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プロフィール
- 梅津美治郎とは
- 経歴
- 年譜
- 親族
- 登場する小説
- 関連項目
- 関連サイト
梅津美治郎(うめづよしじろう、明治15年(1882年)1月4日-1949年(昭和24年)1月8日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。昭和53年(1978年)に靖国神社に合祀される。
経歴
| 中学済々黌を経て、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(第15期7番)、陸軍大学校(第23期首席)を卒業。 |
| 関東軍総司令官、参謀総長などを務める。 |
| 支那駐屯軍司令官時代の昭和10年(1935年)6月に「梅津・何応欽協定」を結ぶ。 |
| 当時、華北で相次いだ反日活動が国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、。 |
| #河北省内の国民党支部をすべて撤廃。 |
| #国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退。 |
| #河北省主席である于学忠の罷免。 |
| #すべての抗日団体とその活動の取り締まり。 |
| といった内容の協定を結んだ。 |
| この協定の申し入れについては、当初梅津は全く知らず、駐屯軍の酒井隆参謀長と高橋旦陸軍武官の策謀であったとされている。 |
| その後は寺内寿一陸軍大臣の下に陸軍次官に就任、二・二六事件後に陸軍内の粛正を行った。 |
| その際に、陸軍省に軍務課を新設し、陸軍の政治への発言力を強めた。 |
| だが、「剣に右翼を近づけてはならん」とする態度は、皇道派の反発を招いた。 |
| 一部の右翼活動家からは「梅津は日本の赤化を企図している」という怪文書を撒かれる結果となった。 |
| 太平洋戦争開戦前、対外進出強硬派であった陸軍内で冷静であった数少ない幹部の一人だったと言われている。 |
| 関東軍総司令官に就任したのはノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀の粛正が求められたが、見事にその任を果たした。 |
| 太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。 |
| 後の東京裁判では、事件の直後(1939年)から5年間の間に関東軍の司令官を務めたという経歴が、前述の「梅津・何応欽協定」と共に最もウェートが置かれる事となる。 |
| 終戦時の御前会議では陸軍を代表して本土決戦を主張するが、個人的には本土決戦は不可能だと考えていたらしく、昭和天皇に本土決戦の準備が出来ていないことを明示した極秘資料を提示している。 |
| 一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデター計画を阿南惟幾陸軍大臣から知らされた際は絶対反対を唱え、計画を中止させた。 |
| ファイル:SurrenderofJapan-USSMissouri.jpg|thumb|250px|降伏調印全権団一行。 |
| 右前方軍服の人物が梅津。 |
| 太平洋戦争の降伏文書調印式全権を依頼されると、徹底抗戦を主張した自分をアメリカの軍艦に行かせるのは死ねというも同然であり、降伏に賛成した米内光政、鈴木貫太郎ら海軍首脳が適役であるとして拒否した。 |
| しかし、昭和天皇から直々の願いを受けて重光葵らと共に出席する事となり、その際息子に対して二・二六事件とノモンハン事件の事を指し「今度もまた後始末だよ」とぼやいたという。 |
| 調印式では、持参した万年筆の調子が悪く、副官のものを借りて署名したといわれている。 |
| 東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。 |
| 判決は終身禁固刑が言い渡され、昭和24年(1949年)1月8日、服役中に直腸癌により病没した。 |
| 梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。 |
年譜
| 明治35年(1902年)6月-陸軍中央幼年学校卒業。 |
| 明治36年(1903年)11月30日-陸軍士官学校(第15期卒業順位7番秦郁彦編著「日本陸海軍総合事典」東京大学出版会、1994年、p247、p251)、歩兵科卒業。 |
| 同期に乃木希典の次男保典(歩兵科、日露戦争で戦死)、河本大作(歩兵科、大佐関東軍参謀時張作霖爆殺事件(1928年-昭和3年6月)を起し停職、待命、予備役編入)、多田駿(砲兵科)、谷寿夫(歩兵科)。 |
| 明治37年(1904年)2月12日-少尉に任官。 |
| 歩兵第1連隊付。 |
| 明治38年(1905年)6月30日-中尉に昇進。 |
| 明治44年(1911年)11月-陸軍大学校卒業(第23期首席秦郁彦編著『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会、1994年、p247、p251)。 |
| 明治45年(1912年)3月25日-大尉に昇進。 |
| 歩兵第1連隊中隊長。 |
| 大正7年(1918年)6月1日-少佐に昇進。 |
| 大正11年(1922年)2月8日-中佐に昇進。 |
| 大正13年(1924年)12月15日-大佐に昇進。 |
| 歩兵第3連隊長。 |
| 大正15年(1926年)12月1日-参謀本部編制動員課長。 |
| 昭和3年(1928年)8月10日-陸軍省軍務局軍事課長。 |
| 昭和5年(1930年)8月1日-陸軍少将に昇進。 |
| 歩兵第1旅団長。 |
| 昭和6年(1931年)8月1日-参謀本部総務部長。 |
| 昭和8年(1933年)11月1日-駐スイス公使館付武官。 |
| 昭和9年(1934年)。 |
| 3月5日-支那駐屯軍司令官。 |
| 8月1日-陸軍中将に昇進。 |
| 昭和10年(1935年)8月1日-第2師団長。 |
| 昭和11年(1936年)3月23日-陸軍次官。 |
| 昭和13年(1938年)5月30日-第1軍司令官。 |
| 昭和14年(1939年)}9月7日-関東軍司令官兼特命全権大使。 |
| 昭和15年(1940年)}8月1日-陸軍大将に昇進。 |
| 昭和17年(1942年)10月1日-関東軍総司令官。 |
| 昭和19年(1944年)7月18日-参謀総長。 |
| 昭和20年(1945年)。 |
| 9月2日-大本営全権として降伏文書調印式に出席。 |
| 10月15日-軍事参議官。 |
| 11月30日-予備役編入。 |
親族
| 長男梅津美一東京帝国大学在学中に学徒出陣。 |
| 第四期防備専修予備学生。 |
| 海軍少尉任官後、第9根拠地隊分隊士。 |
| 戦後は東京裁判で父の副弁護人を務める。 |
| 孫梅津成実(イラストレーター)。 |
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1935年
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「梅津・何応欽協定」を結ぶ |
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1949年
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服役中に直腸癌により病没した |
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