| 多治見工業高校では、夏の岐阜県大会でノーヒットノーランを記録するなど優勝に貢献するも隣県の三重県との二次予選「三岐大会」で敗退し甲子園出場は逃す。 |
| に阪急ブレーブスに入団。 |
| 高卒ルーキー1年目にして開幕投手に指名され勝利投手。 |
| 同年は55試合に登板し20勝を挙げるも、新人王争いは宅和本司(南海)に敗れる。 |
| ルーキーで20勝しながら新人王に選ばれなかったのは、現在も梶本ただひとり。 |
| スポーツ新聞では「5000円エース」と称されたが、実際の月給は2万円だった。 |
| 本人は「その年の8月からいきなり給料が倍額になった」と回想しているが、これは新聞記事によって名を知らしめてくれたことに対するリップサービスである。 |
| には28勝を挙げたが後述するように大映スターズの三浦方義(29勝)に阻まれ最多勝を逃した。 |
| にも21勝を挙げるなどエースとして阪急の「灰色の時代」を支えた。 |
| 1957年7月23日の対南海戦で達成した公式戦9連続奪三振は、現在もプロ野球記録。 |
| このときの1人目が投手の皆川睦男。 |
| 最初は「いつもよりちょっと三振が多いな」くらいにしか思っていなかったが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ、急に記録を意識したという。 |
| 10人目の打者は再び投手の皆川(皆川も好投していたため、代打を出せなかった)だったが、不用意にストライクを取り行ったところをバットに当てられ、センターフライになり、記録が途絶えた。 |
| 梶本は後に「もし皆川をまた三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている「阪急ブレーブス黄金の歴史~よみがえる勇者の記憶」ベースボール・マガジン社。 |
| 1959年6月12日の試合で9回2死まで無安打に抑えながら、最後の打者に安打を打たれてノーヒットノーランを逃している。 |
| 後に入団する米田哲也と「ヨネカジ時代」を形成。 |
| はパームボールを習得して15勝を挙げ、念願の初優勝に貢献。 |
| 同年に通算200勝を達成。 |
| に現役引退。 |
| 通算254勝255敗と、200勝以上を記録した投手の中で唯一負け越している。 |
| 時には貧弱な打線を支えるべく3番として出場したことがあるほか、一塁手として試合に出場したこともあった。 |
| また、にはシーズン15連敗という不名誉な記録をマークした結果、長谷川良平に次いで200勝より先に200敗を記録した史上2人目の投手になった(後に東尾修も記録)。 |
| タイトルや記録にこだわるような性格では全くなく、シーズン終盤、最多勝を獲らせるために勝ちゲームでのリリーフ登板を監督から促されたこともあったが、「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断ったことがある。 |
| 同様に自身の勝ち星にもこだわりがなく、現役最後の年に自身の通算勝利数が通算敗戦数を上回せるためにリリーフで登板する事を監督が打診しても拒否したという。 |
| 雑誌のインタビューで「10-0で勝つより0-1で負けたほうがいい。 |
| 勝った負けたより、内容のあるピッチングをしたかどうか、そのほうが自分にとって大事だった」と語っている。 |
| このような性格も手伝って、通算200勝以上の投手では唯一最多勝、最優秀防御率、最高勝率のいわゆる投手三冠タイトルに無縁だった(無冠の帝王も参照)。 |
| 中でも、1956年は大映の三浦方義とシーズン終了間際まで最多勝争いをし、残り2試合で27勝で並び、当時の最多勝利新記録を更新したが、共に最終戦となる翌日のダブルヘッダー第一試合で梶本はリリーフで28勝を上げると三浦もまた28勝を上げ、再び並んだが、最終的に三浦がダブルヘッダー最終戦にリリーフ登板し、29勝目を挙げて抜かれ、最多勝には僅かに届かなかった。 |
| 現役時代で一番、最多勝タイトルに近い成績を挙げた事になるが、生涯通じての最高成績でもある。 |
| 弟の梶本靖郎も阪急の投手で、通算3勝2敗の成績を残している。 |
| このうちの1勝は兄弟でリレーした試合であった。 |
| 同時代の投手の多くが力投型のフォームで投げたのに対して、長身にもかかわらずスリー・クォーター気味の、一見おとなしく見えるフォームからの快速球を特徴としていた。 |
| ゆったりとしつつ全身を大きく使うフォームは当時最高の左腕投手の呼び声が高かった金田正一を手本にしたと言う。 |
| しかし本人によれば「カネさんの独特の全身の使い方はあの人にしか出来ないもの。 |
| ついにものにできなかった」という文春ビジュアル文庫「豪球列伝」文藝春秋社。 |
| 現役時代にほとんど故障らしい故障をせず、引退後、プロ野球マスターズリーグに登板した際に60歳を超えているにもかかわらず140km/h近い球速を記録していた。 |
| 極めて温厚な人物で知られ、野村克也に言わせれば「ピッチャーらしくない、仏様のような性格」。 |
| 反面、非常に芯の強いところもあり、プロ入り直後に「酒ぐらい飲めないと一人前になれないぞ」と言われた先輩選手の前でボトル一本分の水割り(グラス十数杯分)をズラリ並べ、すべて飲み干したというエピソードもある。 |
| 後輩の面倒見が非常によく、コーチ・監督時代を通じて選手たちからも慕われた。 |
| また、一軍で実力の出せなかった今井雄太郎の酒好きに目を付け、今井に酒を飲ませて登板させてエースに成長させた。 |
| 2006年9月23日午前6時26分、呼吸不全のため神戸市内の病院で死去。 |
| 死後、に野球殿堂入り。 |