| 知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健ら日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む。 |
| 1979年、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという日本体育協会のプログラムからの助成を受けて、西ドイツにコーチ留学に送り出され、1.FCケルンのヘネス・バイスバイラー、リヌス・ミケルスらから一年間、指導法を学ぶ留学中にバイスバイラーがニューヨーク・コスモスへ。 |
| 次がカールハインツ・ヘダゴット、三人目がリヌス・ミケルス。 |
| 一年の間に監督が3人代わった(『週刊サッカーマガジン』2008年12月2日号、p56)。 |
| 『サッカー批評』vol.10、双葉社、p74-82後藤健生『日本サッカー史日本代表の85年・代表篇』、双葉社、2002年、p194-230後藤健生『日本サッカー史日本代表の90年・資料篇』、双葉社、2007年、p171-199森孝慈監修『ワールドサッカークイズ』、リイド社、2006年、p254-255。 |
| 1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早く1980年11月帰国、川淵三郎監督下でコーチに就任 |
| 川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った『週刊サッカーマガジン』2008年12月16日号、p56-57 |
| ワールドカップ・スペイン大会アジア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く |
| 理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった。 |
| プロ化を進める日産や読売、アマにこだわる古河や三菱など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他朝日新聞、2011年7月18日13面、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにないチーム作りを行った。 |
| この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルでロサンゼルスオリンピック予選に臨んだ西部謙司『サッカー日本代表システム進化論』p17-40。 |
| またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した |
| 1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。 |
| いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てるサラリーマン日刊スポーツ、2010年4月2日7面。 |
| 代表合宿中は、いわゆる出張。 |
| 中には欠勤扱いの選手もいた。 |
| 現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代。 |
| 副主将ながら控えで出番の少なかった岡田武史が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったという |
| 戸塚哲也などは「代表でプレーすることに魅力を感じないと」公言していた。 |
| 日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表のスタッフは、監督とコーチにドクターとマッサージ師が各一人だけ。 |
| マネージャーもおらず、監督が選手のパスポートを集めてチェックインなども行っていた。 |
| 代表選手に支払われるお金は交通費のみ。 |
| 代表監督も勿論、無報酬。 |
| 読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった |
| 選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことが出来ない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い1982年から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった |
| 日本のライバルである韓国では1983年よりプロリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになっていた韓国は1984年7月31日に編成された代表チームから、監督100万ウォン、コーチ80万ウォン、選手には50万ウォンの手当が毎月支給された(400ウォンが100円の時代)(『完全敵地』、p153)。 |
| 1982年ニューデリー・アジア大会では韓国を初めて国外で破り、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せた。 |
| 当時の日本代表の親善試合の相手は海外のクラブチームと決まっていた対戦相手を代表チームを原則とする不文律が出来上がったのは、1994年の加茂周監督以降(加藤久『完全敵地』、集英社、2005年、p37)。 |
| しかし、親善試合の大活躍で攻撃の軸と期待された尾崎加寿夫がドイツ・ブンデスリーガのビーレフェルトに移籍したのが響いた。 |
| 当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなかった。 |
| 試行錯誤の末、フォワードの軸はヘッドの強い原博実を据えて柱谷幸一と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に、金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする新布陣で挑むが『週刊サッカーマガジン』2008年1月27日号p57肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した。 |
| 当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、タイの試合のビデオを集めることもできず。 |
| 相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・ピヤポンにハットトリックを決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。 |
| 結局これが尾を引き4戦全敗に終わった。 |
| 大会の直前にそれまでいなかったベテランを加えたことで、若手中心に団結していたチームのバランスが崩れてしまったともいわれる『完全敵地』、p150。 |
| 森は辞意を表明したが慰留され、名誉挽回で挑んだワールドカップ・メキシコ大会アジア予選では国立で北朝鮮代表に史上初めて勝利し、平壌金日成競技場で北朝鮮と"完全アウェー"を戦うなどで快調に1次予選、2次予選を突破『完全敵地』 |
| 宮内聡と西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで |
| サッカーファンもこのチームに懸ける期待が大きく、迎えた宿敵韓国とのアジア最終予選の初戦、1985年10月26日の国立での試合は、代表の試合で初めて国立が満員になった『スポーツ20世紀⑥サッカー名勝負の記憶』、ベースボールマガジン社、2000年、p102-105『週刊サッカーマガジン』2008年8月5日号、p56。 |
| テレビの実況を担当したNHKアナウンサー・山本浩の「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」というオープニングの名台詞でも有名な試合であるが |
| また韓国代表を率いた金正男監督は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり、冷静に日本チームを分析していた。 |
| だからリスクを冒すことなく30分までは守りを固めていく」と、金監督が韓国イレブンに与えたこの指示で、引き気味に試合を進める韓国に対して、ボール支配率で上回った日本がペースを握っているかに思われたが、それは相手に仕組まれた巧妙な罠だった。 |
| 右からのセンタリング、クリアミスをつけ込まれ先制点を奪われると、韓国に対する長年のコンプレックスから選手は大きく動揺し41分、再びミスから致命的な2点目を奪われた。 |
| このゴールの直後に木村和司の伝説のフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが宿敵韓国の前に敗れ去った。 |
| この時のチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームとしてサッカーファンの間で語り継がれている |
| 森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と明言した「そういうシステムにしていくしかない」と強化部会か何かでしたら『東京スポーツ』が"森監督、金銭を要求"と大見出しで書いた(『サッカー批評』vol.10、p82)。 |
| 各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチーム都並敏史『日本代表に捧ぐ』、p71、72の敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、長沼健に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず(森自身も三菱重工からの出向の身だった) |
| 協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後のJリーグ創設という大河の一滴になった、また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる |
| 日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した横山謙三から(年間300万円)。 |
| 森ファミリーのメンバーは現在、協会幹部、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に2回集まるという |