| 世は労働者のストライキが急増、小作争議が広がり、学生運動も台頭。 |
| 森戸も当時の知識人たちと同様、近代社会の弊害を除去するための探求に進む。 |
| 社会科学あるいは社会問題を生涯の研究課題に選ぶ。 |
| 森戸は大学に残り師事した高野岩三郎の経済統計研究室でしばらく助手をした後1916年、経済学科助教授となる。 |
| 当時の経済学科は法科大学の附属品のような存在であったため、他の研究者たちと独立に尽力。 |
| 経済学・社会科学の研究は、法律・政治の国家学とは本質的に異なるうえ、国家主義的思想の強い法科大学とは袂を分かちたい気持もあった。 |
| 結果的にこの考えが後の森戸事件で上杉慎吉ら学内の右翼団体から攻撃を受ける事となる。 |
| 1917年、ロシア革命が発生。 |
| 1919年、経済学科が経済学部として法学部から独立。 |
| 1920年、新機運を象徴するものとして経済学部が森戸と同じ助教授だった大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』を刊行。 |
| 森戸は人類の究極の理想が無政府共産制にあるとの考えから、この創刊号にロシアの無政府主義者・クロポトキンの「パンと奪取」という論文を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表した。 |
| このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体・興国同志会から排撃を受けて雑誌は回収処分のち発売禁止となった。 |
| さらに新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸と大内は起訴された。 |
| これをきっかけに東大新人会が森戸らを擁護、さらに各大学の学生団体も森戸を擁護し新聞・雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となった。 |
| 裁判では今村力三を主任弁護士に原嘉道、花井卓蔵、鵜沢総明、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、佐々木惣一、安部磯雄ら錚々たるメンバーが揃い、大審院まで行ったが上告は棄却され有罪が確定。 |
| 森戸と大内両名は失職した。 |
| この間森戸は巣鴨監獄の独房で3ヶ月を過ごした。 |
| しかし前述の弁護団を始め有島武郎や長谷川如是閑、後藤新平ら多くの文化人が森戸らを擁護し、有島とは終生変わらぬ交友を持った。 |
| 有島は生前のクロポトキンに会った数少ない日本人の一人である。 |
| 森戸の論文は、論理も学術的価値もない、と同じ経済学部の教授・渡辺銕蔵などは批判したが、この事件後、東大学生の赤化思想に拍車がかかった。 |
| 森戸を擁護した東大新人会は、この後発展し社会主義革命の指導基地としてその勢力を拡大、朝日新聞編集局は東大新人会に支配され、終戦後も引き続いて日本の政治を左右し、朝日新聞は容共反米を強化していった。 |
| 尾崎秀実や佐々弘雄、向坂逸郎、森恭三、広岡知男は東大の卒業生でこうした流れを汲むもの。 |
| また東大経済学部の教授間の思想的対立は、マルクス学派と反マルクス学派の正面対立となり、同時に日本の政治的混乱と戦争の影響を受けて、この対立の学界言論界に及ぼす影響は益々重大になった。 |
| 敗戦後の日本に於いては、更にそれが日本の政治勢力の所在を左右する原因となり、日本の運命を決するほどの決定的な情勢にまで進展した。 |
| 森戸事件は蟻の一穴であったともいえる。 |
| なお岸信介は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件を切っ掛けに興国同志会と決別している。 |
| 出獄後、高野が所長を務めていた大阪の大原社会問題研究所に迎えられる。 |
| 森戸や東大経済学部の若手研究家たちが大原研究所に移った事で研究所の陣営は充実し権威を高めた。 |
| 1921年、東大助教授時代に続き二度目のドイツ留学。 |
| ここでマルクス主義の文献を掻き集めるなどし、1年10ヶ月ヴァイマル体制下のドイツで学ぶ。 |
| 帰国後、敗戦まで同研究所をよりどころに社会科学の研究や労働者教育に従事した。 |
| また大阪労働者学校、神戸労働者学校の経営委員・講師として携わり中心的運営を担う。 |
| この時、西尾末広と親しくなる。 |
| 大原研究所は財政的に行き詰まり1937年東京に移転し縮小した |