| 1940年(昭和15年)11月4日、伊藤三男、喜美枝の長女として静岡県伊東市に生まれる。 |
| 弟1人、妹1人。 |
| 1941年(昭和16年)1歳父の仕事の関係で、4歳まで中国の張家口に暮らし、終戦直前1945年3月に日本に戻る。 |
| 1946年(昭和21年)6歳父のすすめでヴァイオリンを学び始める。 |
| 1947年(昭和22年)7歳祐天寺より下北沢に転居。 |
| 小学生時代、世界文学全集に親しむ。 |
| 1949年(昭和24年)9歳この年より1965年まで、母親はアメリカ、ドイツ、カンボジアなど世界各国からの留学生を自宅に受け入れた。 |
| 1959年(昭和34年)19歳東京藝術大学器楽科入学。 |
| フランソワーズ・サガン、ジャン=ポール・サルトル、アルベール・カミュなどフランス文学に傾倒。 |
| ほとんどヴァイオリンへの興味を失い、詩人、画家など、異分野の人々と交流。 |
| 1963年(昭和38年)23歳東京藝術大学卒業後は、広告代理店に勤める。 |
| イギリスを出発後、最終目的地のオーストラリアを目指して43力国を旅し、途中の日本に立ち寄ったチェッシャー生まれの英国人アイヴァン・ブラッキンと、夏知り合い、婚約。 |
| 1964年(昭和39年)24歳婚約から6カ月後の1月、結婚。 |
| 東池袋のアパートで、新婚生活をスタート。 |
| 夫婦共稼ぎを続けながら、田園調布に転居。 |
| 1967年(昭和42年)27歳9月、長女ヘザー誕生。 |
| 子育てのため、三浦半島突端の諸磯の家を借り、専業主婦。 |
| その後、次女マリア、三女ナオミ・ジェーン誕生、3女の母となる。 |
| 1973年(昭和48年)33歳長女ヘザーのインターナショナル小学校入学のため、六本木に夫のオフィス兼用の家を借りる。 |
| この子育ての時期、ロアルド・ダール、サキ、レイ・ブラッドベリなどの海外作品を読みふける。 |
| 1977年(昭和52年)37歳夫がいて子供がいて、生活は豊かで幸福だったが、たまらなくひもじく、自分自身に絶望していた時期、版画家池田満寿夫が『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞受賞を知り、それに刺激されて憑かれたように『情事』を書く。 |
| 1978年(昭和53年)38歳処女作の『情事』で第2回すばる文学賞受賞。 |
| 『すばる』12月号に掲載。 |
| 1979年(昭和54年)39歳10月、『すばる』に「誘惑」発表、第82回芥川賞候補となる。 |
| 夏頃、六本木から下北沢に転居。 |
| 1982年(昭和57年)42歳『傷』で、第85回芥川賞候補。 |
| 1983年(昭和58年)43歳『熱い風』で、第88回直木賞候補、『風物語』で第89回直木賞候補。 |
| 9月、初めての書き下ろし作品『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』を講談社より刊行。 |
| 実際にセラピーにかかりながら内なる発見を文字に変えてゆき、静かなトーンでまとめ、作家としての新境地を切り開く。 |
| 1984年(昭和59年)44歳4月より、『SAVVY』にアートディレクター亀海昌次との連載エッセイ「男と女の糸電話」の連載をはじめる(~1991年3月、1986年に『もう一度、オクラホマミクサを踊ろう』、1988年に『六本木サイド・バイ・サイド』、1991年に『おいしいパスタ』として刊行)。 |
| 1985年(昭和60年)45歳8月、主婦の友社より、『叫ぶ私』(セラピスト河野貴代美とのセラピーの記録。 |
| 『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』を書きながらセラピーを受けていた際のテープから、ノンフィクション風のフィクションとしてまとめたもの刊行。 |
| 1986年(昭和61年)46歳5月より、「小説新潮」に「ファミリー・ポートレート」連載(~1988年8月、1988年に新潮社より『ファミリー・レポート』と改題して刊行)。 |
| 10月、『小説現代』に「浅水湾《リパルスベイ》の月」、11月に「ザ・ロビー」発表(その後、書き下ろしを加えて、1987年に講談社より『浅水湾《リパルスベイ》の月』として刊行)。 |
| 11月より、『月刊カドカワ』に夫のアイヴァン・ブラッキンとの共著「ラヴ・ストーリー」連載(~1987年10月、1988年に角川書店より『ラヴ・ストーリー』として刊行)。 |
| 1987年(昭和62年)47歳カナダの島ノルウェイ・アイランドを購入。 |
| 夏の避暑先を軽井沢からカナダに変える。 |
| 11月、『小説すばる』創刊号に「ダブルコンチェルト」発表。 |
| それまでエッセイでやっていた男と女の視点の違いという実験を、小説でやってみたもの。 |
| 作家として、『情事』、『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』に続く、新たな境地に入った作品。 |
| 1989年(平成元年)49歳夏、下北沢の自宅新築のため、池田山(東五反田)に転居。 |
| 与論島にスペイン風の別荘を新築。 |
| 1990年(平成2年)50歳夏、下北沢の自宅の新居完成。 |
| 1991年(平成3年)51歳3月4日~10月31日、200回にわたり「朝日新聞」夕刊紙上に、一話完結の読み切り形式を採用した「TOKYO発千夜一夜」を掲載(1992年に朝日新聞社から『東京発千夜一夜』として刊行)。 |
| 4月、日本橋高島屋4Fに「森瑤子コレクション」(シックな大人の感性を取り入れたギフトショップ)をオープン。 |
| 1992年(平成4年)52歳11月、新潮社より『風と共に去りぬ』の続編『スカーレット』(アレクサンドラ・リプリー著、森瑤子訳)刊行。 |
| この仕事のために、ほぼ1年、作家としてのほとんどの精力を注ぎ、翻訳としてできる範囲を問いつつ、作家生命を賭けて翻訳した。 |
| 夏、アトランタ、スコットランド等『スカーレット』の舞台を取材旅行。 |
| 旅の途中、数度にわたって胃痛を訴える。 |
| 『スカーレット』刊行後も、執筆の他、取材、講演会等、多忙をきわめる。 |
| 1993年(平成5年)年頭より、父・伊藤三男が長年温めていたテーマについて、時代小説「甲比丹《カピタン》」として取り組む。 |
| 3月上旬に精密検査にて、容易ならざる病状が判明。 |
| その後、胃癌であることの告知を受ける。 |
| 多摩市の病院に転院。 |
| 治療を続けながら、友人達とのFAXのやりとり、各誌の連載原稿を書く。 |
| 5月、集英社より『森瑤子自選集』〈全9巻〉の刊行が始まる。 |
| 6月上旬、容態が急変、覚悟を決めて家族と仕事、葬儀の事など伝え始める。 |
| 7月6日、52歳で永眠。 |
| 7月8日、四谷聖イグナチオ教会に於てカトリック葬。 |