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渡辺崋山
江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮... |
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速水御舟(はやみぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日-1935年(昭和10年)3月20日)は大正期~昭和初期の日本画家である。本名は蒔田栄一(まきたえいいち... |
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円山応挙
江戸時代中期の絵師。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。諸説あるが「足のない幽霊... |
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江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏... |
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竹内栖鳳
戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。本名は恒吉。最初は棲... |
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武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。極真空手十段。別名:マス大山。韓国名は崔永宜(최영의)。1970年代に週刊少年マガジンに連載さ... |
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田能村竹田
江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。幼名は磯吉、後に玄乗、生蔵。名は孝憲。字は君... |
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平将門
平安時代中期の関東の豪族である。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸... |
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岡田半江
岡田半江(おかたはんこう、天明2年(1781年)-弘化3年2月7日(1846年))は江戸時代後期の文人画家。岡田米山人の子。大坂の出身。幼名を常吉、諱は粛、字を... |
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プロフィール
椿椿山(つばきちんざん、享和元年6月4日(1801年7月14日)-嘉永7年7月13日(1854年8月6日))は江戸時代後期の日本の文人画家である。江戸小石川天神に生まれる。主に花鳥画、人物画を得意とした。名は弼(たすく)。字は篤甫(とくほ)、通称を忠太、亮太。号は椿山の他に、琢華堂(たくげどう)、休庵、四休庵(しきゅうあん)、春松軒、碧蔭山房(へきいんさんぼう)、羅渓、琢華道人(たくかどうじん)。
生涯
| 旗本槍組同心・椿嘉左衛門定重が54歳のとき、二男二女の末子として江戸に生まれる。 |
| 椿山7歳の時、父と死別。 |
| 長じて世襲制であった槍組同心となり、兵学・槍術・馬術などの武術を習得した。 |
| 同心勤務をしながら、微禄を補うために画を志した。 |
| はじめ金子金陵に就いて沈南蘋風の花鳥画を学んだが、金陵が死没してしまい、その師・谷文晁に一時入門する。 |
| 17歳の頃、同門の渡辺崋山を慕い華山塾に入門。 |
| 華山を終生の師とする。 |
| はじめ椿山は同門の者から不器用といわれたが、画の修業を怠らずたいへんな努力をした。 |
| これを知った華山は「後に必ず名をなすだろう」といったという。 |
| 早い時期に槍組同心を辞職し、画業と学問に専念する。 |
| 師・崋山の作風をよく受け継ぎながらもその作風は柔軟な筆遣いと温和な彩色に特質がみられる。 |
| 花鳥画・虫獣画・人物画に名品が多い。 |
| また俳諧・煎茶にも通じ、笙の名手としても知られる。 |
| 椿山は穏やかで誠実な人柄であり寡黙であった。 |
| 友人からは「飯少なく、遊少なく、眠少なく、言葉少なく、磨墨少なく、着筆少なく、彩色少なく、酒を飲まず、女に近付かず、煙草を喫せず、故に十少と称す」と評されていた。 |
| 親孝行で知られ年老いた母を孝養で報いた。 |
| 子弟の情宜にも篤く崋山が蛮社の獄で捕らわれた際には、救済運動の中心となり奔走した。 |
| 崋山自刃後は福田半香とともに献身的に遺族の後見をし、崋山の二男・小華を弟子に迎え養育して後に養女を娶わせた。 |
| また密かに田原まで亡き華山の墓参をしている。 |
| 東京都新宿区の円福寺、港区青山霊園に墓と碑がある。 |
| 椿山の息子・華谷(恒吉)は華山に入門して豊かな才能を示していたが椿山に先立つこと4年の嘉永3年(1850年)、わずか26歳で夭折し跡を継ぐことができなかった。 |
画業
| 師・崋山の教えである写生を重視しつつも中国明末清初の画家・徐崇嗣、惲南田、張秋谷などの着色花鳥画の伝統技法(没骨法、たらし込み)を取り入れ崋山の画風を発展させ、写意と装飾性をもつ独自の様式を完成させた。 |
| 晩年に及んで、神妙の域に達し超俗洒脱の趣のある作品を遺している。 |
| 代表作の「渡辺崋山像」は華山45歳のスケッチを元に没後3年目に画稿を描き、13回忌にあたる嘉永6年(1853年)10月にようやく完成した。 |
| 華山伝授の洋画の陰影法に加え闊達な線描、淡雅な彩色を融合して肖像画の心象表現(写意)に新味を加えた傑作とされる。 |
| 華山・椿山の画の系統を特に「華椿系」と称する。 |
門弟
| 渡辺如山 華山の実弟。 |
| 渡辺小華 華山の次男。 |
| 椿華谷 椿山の実子。 |
代表作
| 山海奇勝図(文政10年(1827年)) 重要文化財・個人蔵。 |
| 久能山真景図(天保8年(1837年)) 重要文化財・山種美術館蔵絹本著色 |
| 伊藤瑞三像(天保11年(1840年))。 |
| 春江遊魚図(嘉永3年(1850年)) 東京芸術大学大学美術館蔵 |
| 四君子図屏風(嘉永3年(1850年)) 宮内庁蔵。 |
| 漁山水図屏風(嘉永3年(1850年)) ホノルル美術館蔵紙本淡彩四曲一隻。 |
| 秋草双鶉図(嘉永4年(1851年))。 |
| 蘭竹図屏風(嘉永5年(1852年)) 大倉集古館蔵。 |
| 渡辺崋山像(嘉永6年(1853年)) 重要文化財・愛知県田原市博物館蔵 |
| 高野長英像 重要文化財・高野長英記念館蔵 |
| 高久靄厓像 重要文化財・個人蔵。 |
参考文献
| 大槻幹郎著 『文人画家の譜』ぺりかん社、2000年 ISBN4831508985。 |
| 坂崎坦著 『日本画の精神』ぺりかん社、1995年 ISBN4831507032。 |
| 浅野梅堂著 『寒檠鎖綴』。 |
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1850年
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わずか26歳で夭折し跡を継ぐことができなかった |
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1853年
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