| 父の楊宝は戦乱を避けて学問にいそしみ、光武帝から仕官を勧められたが断り、隠棲したまま亡くなった。 |
| 楊震は、幼くして太常の桓都から欧陽尚書を学び、経に明るかったことから関西の孔子と賞賛された。 |
| 州郡からの誘いを断り続け、仕官せずに農耕をして暮らし、母に孝養を尽くし、弟子からの手伝いも拒絶した。 |
| 後に50歳になって始めて州郡に仕えた。 |
| 大将軍の鄧騭は楊震の評判を聞き、茂才に推挙した。 |
| 楊震は4度官職を移り、荊州刺史・東莱太守までになった。 |
| 東莱の任地に赴くとき、荊州刺史時代に茂才に挙げた人物から金品をひそかに送られたが拒絶した「天知る、地知る、汝知る、我知る」の「四知」の故事が生まれた。 |
| 元初4年(117年)に中央に召喚されて太僕となり、のちに太常になった。 |
| 儒者の人材が不足しがちであったが、陳留の名士の楊倫らを推挙し、博士の質を一新させた。 |
| 永寧元年(120年)には司徒となった。 |
| 永寧2年(121年)、長く臨朝してきた鄧太后が死去し、鄧一族が粛清され安帝の親政が開始されるようになると、安帝の側近たちが勝手に振舞うようになった。 |
| あるとき、安帝の乳母の王聖君の娘の伯栄が宮中で不正を働いていたため、楊震は安帝に君側の奸を除くよう勧めた。 |
| 安帝は楊震の上奏を側近達に見せたため、楊震は恐れ恨まれるようになった。 |
| 伯栄が劉氏の皇族と結婚しますます増長するようになると、楊震は再び上奏しこれを牽制した。 |
| 安帝はこれを黙殺した。 |
| 延光2年(123年)、楊震は太尉となった。 |
| 大鴻臚の耿宝(安帝の舅)は楊震に対し、中常侍の李閏の兄を任用するよう楊震に勧めたが、楊震は拒絶した。 |
| 耿宝は楊震を説得しようとしたが、楊震は正論を吐いて堂々と拒絶したため、耿宝の恨みを買うこととなった。 |
| また、閻皇后の兄である執金吾の閻顕も縁者の抜擢を楊震に申し入れたが、同様に楊震に拒絶された。 |
| 司空の劉授がこの話を聞き、すぐさま李閏の兄と閻顕の縁者を任用したため、ますます楊震は恨まれることとなった。 |
| 安帝は王聖母のために屋敷を造営し、また、取り巻きの中常侍の樊豊と侍中の周広・謝渾が朝廷・宮中を暗躍するなど、安帝の側近達の勢いはますます盛んであった。 |
| 楊震はたびたび強い調子で安帝を諌めたため、安帝も楊震に不興を禁じえない心境となった。 |
| 樊豊らも楊震を危険視したが、名儒であったため手を下せずにいた。 |
| ちょうど、河間の趙騰という人物が世情の乱れを憂いて安帝に諫言し、獄に下されるという事件が起きた。 |
| 楊震はこれを救うため上疎したが、。 |
| 安帝には聞き入れられず、趙騰は処刑された。 |
| 延光3年(124年)、安帝が東に巡狩に出た留守中に、樊豊らは詔勅を偽造して屋敷を大増築した。 |
| これを楊震の掾の高舒がこれを見咎めて、安帝の帰還を待って樊豊らを弾劾しようとした。 |
| 樊豊らは恐れおののき、鄧氏に取り立てられた過去まで持ち出して楊震を讒言し、安帝は楊震を太尉から免職とした。 |
| 楊震は閉門蟄居していたが、樊豊らは大将軍の耿宝に働きかけ、楊震をさらに讒言させた。 |
| 安帝は楊震に本籍の郡に戻るよう詔を出した。 |
| 楊震は洛陽城内の西面にある夕陽亭で毒を仰いで「わが事は尽きた!」と叫んで無念の自決を遂げた。 |
| 弘農太守の移良は樊豊らの意を受けて、楊震の葬儀を停止させ、棺を放置させた。 |
| さらに楊震の子達を庶民に落とした。 |
| 後に順帝が即位すると、樊豊・周広らは誅殺となり、楊震の弟子の虞放・陳翼の働きで楊震の名誉は回復され、改葬を許され、子達も官職を与えられた。 |
| 改葬の直前、墓に大鳥が現れたという。 |