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中田武雄
中田武雄 (政治家) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 中田 武雄 (なかた たけお、 1918年 - 2007年 8月19日 )は ... |
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藤村富美男
広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。日本プロ野球を代表する伝説の強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦... |
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吉田正男
昭和初期に活躍した中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した... |
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嶋清一
和歌山県出身の野球選手(投手)。高校野球史に残る「伝説の大投手」。 |
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濃人渉
昭和初期から後期(1930年代後半~1970年代前半)のプロ野球選手、内野手(主に遊撃手)。名古屋金鯱軍契約第1号選手。プロ野球監督。(1961年5月4日~1962年... |
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板東英二
旧満州国生まれ、徳島県板野郡板東町(現・鳴門市)育ちの元プロ野球選手、野球解説者(ニッポン放送、毎日放送と契約、かつては中部日本放送)、野球評論家... |
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野茂英雄
大阪府大阪市港区出身の元プロ野球選手(投手)。 |
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平古場昭二
日本の野球選手、プロ野球審判員。戦後初の高校野球優勝投手となった人物でもある。 |
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嘉藤栄吉
兵庫県出身の元高校球児。高校野球にて活躍した。1933年に開催された第19回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)で高校野球史上最長... |
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辻内崇伸
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。 |
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門前眞佐人
広島県三次市出身のプロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者。(旧登録名は、門前真佐人)。大阪タイガース契約第1号選手。 |
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稲田実
稲田実 [イナダミノル] 1948年、徳島県徳島市に生まれる。大阪大学工学部および同大学院工学研究科修士課程修了(工学修士)。(株)東芝に入社し材料開発... |
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湯浅禎夫
鳥取県米子市(旧淀江町)出身の元プロ野球監督、選手。大正から昭和中期(1920年代前半-1950年代前半)にかけて活躍した。大学、ノンプロでの剛腕ぶりから、... |
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王貞治
日本生まれ・中華民国籍の元プロ野球選手、監督。読売ジャイアンツの主軸打者として積み上げた通算本塁打数868本は、メジャーリーグのハンク・アーロンの755... |
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森弘太郎
森弘太郎(もりこうたろう、1915年5月29日-1966年9月1日)は愛知県一宮市出身のプロ野球選手(投手)。 |
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白石勝巳
広島県広島市南区皆実町出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。愛称はトラ(眼病のトラホームが由来)。また、アメリカのギャング映画スタージェー... |
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鶴岡一人
広島県呉市五番町(現:西中央)出身のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。戦後の1946年から1958年までは「山本一人(やまもとかずと)」。愛称は鶴... |
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松井栄造
昭和初期の旧制中等学校野球(現・高校野球)、大学野球の選手。左投げ左打ち。 |
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青田昇
兵庫県三木市出身のプロ野球選手・コーチ・監督、野球評論家・野球解説者。愛称は「じゃじゃ馬」。現役時代は巨人、阪急、洋松・大洋において豪快なバッティ... |
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プロフィール
- 楠本保とは
- 経歴
- 剛球投手
- エピソード
- 甲子園での成績
- 関連書籍
- 関連サイト
楠本保(くすもとたもつ、1914年(大正3年)12月19日-1943年(昭和18年)7月23日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手(投手)。甲子園大会において「不世出の投手」と称えられ、「世紀の剛球投手」として名を馳せた。また、強打でも鳴らした。右投げ右打ち。
経歴
| 魚住第二尋常高等小学校に入学してまもなく野球を始めた。 |
| その剛速球は早くから有名で「明石の怪童」と呼ばれ、1927年楠本が12歳の時に、全国少年野球大会出場をかけて予選で対戦した相手の赤石尋常小學校が「楠本の球は振っても当たらない」と徹底的にバント攻撃を仕掛けた、という逸話が残っている。 |
| 昭和4年(1929年)、兵庫県立明石中学校(現・兵庫県立明石高等学校)に入学し、野球部に入部。 |
| 昭和5年春、昭和6年春、昭和7年春・夏、昭和8年春・夏の計6回の甲子園出場を果たした。 |
| この間、1932年の第9回センバツ大会で広陵中相手に大会初の先発全員奪三振(13個)を記録したのを皮切りに合計3度にわたる先発全員奪三振を記録、2度記録した投手さえ他にいない不滅の大記録を持つ。 |
| 同年夏の第18回大会では、準決勝で松山商業に0-3と敗れたが、この試合でも被安打はわずかに2、奪三振は17個で、大会通算奪三振64個の記録を達成したこの記録は26年後の1958年、第40回大会で徳島商の板東英二によって塗り替えられた(83個)が、板東が6試合・62イニングで達成(奪三振率:12.0)したのに対し、楠本は4試合・36イニングで達成(同:16.0)した事に注意する必要がある。 |
| 1933年の第10回センバツ大会の準々決勝で沢村栄治を擁する京都商と対戦、2-1で投げ勝っている。 |
| 明石中時代の甲子園での成績は春・夏合わせて6回出場して15勝5敗、完封勝利8(内ノーヒットノーラン2)、先発全員奪三振3回、奪三振203個以上1932年と1933年の2年間での記録。 |
| この他の登板による奪三振もあるため、現在では具体的な数は不明(一説に230個以上とも言われる)。 |
| 打ち込まれて負けたケースはほとんどなく、失点はほとんど味方の失策や相手のスクイズによるものだった。 |
| ただ優勝には一度も恵まれず、また松山商業には3度対戦して3度とも退けられている。 |
| 明石中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、野手に転向。 |
| 3年生と4年生のとき(昭和14年から15年)に主将を務めた。 |
| 東京六大学野球通算85試合出場し284打数66安打、0本塁打、打率.232。 |
| 大学卒業後は貿易会社「大正興業」に勤務する傍ら、社会人野球チーム「全高雄」に所属し野球を続けた。 |
| 昭和16年(1941年)に結婚したが、昭和17年(1942年)に応召。 |
| 中国戦線へ出征し、翌年の7月23日、中国軍の奇襲攻撃を受けて戦死。 |
| 奇しくも、明石中学、慶應義塾大学でチームメイトであった中田武雄戦死の1日後であった。 |
| 戦死当時、妻は妊娠中であり、後に無事出産を果たすが、楠本自身は子供を目にすることはなかった。 |
| 財団法人野球体育博物館の戦没野球人モニュメントにその名が刻まれている。 |
剛球投手
| 広い肩幅のいかにも頑丈そうな体を持ち、投球フォームは振りかぶって足を上げるとそのまま上半身を後ろにひねって打者に背中を見せる、野茂英雄により有名となったいわゆるトルネード投法であった。 |
| 球の出所がわかりづらいだけでなく、投げ込む球は速くて重かった。 |
| しかも常に全力投球であった。 |
| コントロールに難があった時期もあったため、打者は恐ろしさから自然と腰が引けてしまい、バットを振るどころではなく当てるのが精一杯であったといわれる。 |
| 対戦した選手達は一様に「生涯に出会った最強の球だった。 |
| 」と口をそろえたという。 |
| 昭和6年(1931年)に明石中学エースとなってからは、必ず先発マウンドに立ち、ほとんど一人で投げぬいた。 |
| 明石中でチームメイトだった嘉藤栄吉二塁手は「楠本さんが投げれば、ほとんど外野までボールが飛ばない。 |
| 守っていても負ける気がしなかった。 |
| 1試合で24個の三振を取った事もあった。 |
| 」と証言している。 |
| しかし、上半身と腕力による力感あふれる投球フォームは、逆に楠本の投手生命を短くした。 |
| 全盛期は明石中学4年生時の昭和7年(1932年)で、その後楠本の体は下降線をたどる。 |
| 翌年夏の甲子園大会では、脚気の兆しやあせもの悪化もあって第二投手の中田武雄との継投が増え、そして準々決勝の横浜商戦の6回終了後交代したのが投手としての最後の姿となった。 |
| 翌日の準決勝中京商戦は歴史的な大試合となったが(''→中京商対明石中延長25回を参照'')、楠本は右翼手で出場し1度もマウンドに立たなかった。 |
| 投手生命は明石中時代で終わっていたといわれ、事実卒業後の慶應義塾大学では、正式に外野手に転向した。 |
エピソード
| 明石中で楠本の球を受け続けていた福島安治捕手は、楠本の剛速球で指が変形し「銃の引き金が引けない」という理由で兵役を免れたという。 |
甲子園での成績
| 第7回選抜中等学校野球大会(昭和5年(1930年))。 |
| ○12-0敦賀商業、●0-10松山商業。 |
| 第8回選抜中等学校野球大会(昭和6年(1931年))。 |
| ●4-5第一神港商業。 |
| 第9回選抜中等学校野球大会(昭和7年(1932年))。 |
| ○3-0広陵中学(選抜史上初の全員奪三振)、○16-1小倉工業、○1-0京都師範(全員奪三振)、○4-2和歌山中学、●0-1松山商業。 |
| 5試合39イニング4失点17被安打49奪三振(大会委員賞受賞)。 |
| 第18回全国中等学校優勝野球大会(昭和7年(1932年))。 |
| ○4-0北海中学(ノーヒットノーラン)、○1-0大正中学、○3-0八尾中学、●0-3松山商業。 |
| 4試合36イニング3失点9被安打64奪三振。 |
| 第10回選抜中等学校野球大会(昭和8年(1933年))。 |
| ○1-0平安中学(18奪三振)、○4-0浪華商業、○2-1京都商業、○1-0中京商業、●0-1岐阜商業。 |
| 5試合2失点52奪三振。 |
| 第19回全国中等学校優勝野球大会(昭和8年(1933年))。 |
| ○6-0慶應商工、○10-0水戸商業(中田との継投でノーヒットノーラン)、○4-0横浜商業、(●)0-1中京商業(登板せず)。 |
| 3試合21イニング無失点38奪三振。 |
関連書籍
| (絵本)「いつか見た甲子園・悲運の剛球投手楠本保の生涯」浜野卓也作・成瀬数富絵、くもん出版、ISBN4-87576-234-8。 |
| 松本大輔著、神戸新聞社編「明石中-中京商延長25回キミは「伝説の球児たち」を知っているか!!」神戸新聞総合出版センター、ISBN4-343-00217-9。 |
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1929年
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兵庫県立明石中学校(現・兵庫県立明石高等学... |
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1931年
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明石中学エースとなってからは、必ず先発マウ... |
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