| 片手で野球のボールを6つ持つ事ができるらしい |
| 近視で視力が非常に悪い。 |
| 急な参加でコンタクトレンズをつける時間がなく、誰がグラウンドに立っているかも判別できない状態で試合に参加したことがある。 |
| マウンド上で打たれた際の表情から気弱と見られることが多い。 |
| これをはじめとして、心境が表情に出やすい。 |
| 後述の1990年の日本シリーズでは、自身初のシリーズ開幕投手として登板するが、前述の性格が災いした。 |
| 登板試合当日、西武側に先発登板を見破られ敗戦投手となるだけでなく、日本シリーズ敗退を喫している(試合当日、巨人選手の中で槙原のみが異様に緊張している様子を西武側に把握された)。 |
| バース・掛布・岡田の3連続被弾、新庄の敬遠球サヨナラ安打は今でも語り草の一つになっているが、実は阪神戦にめっぽう強く、対阪神戦38勝10敗10完封の好成績を残している。 |
| プロ初勝利も阪神戦である上に、1985年6月28日対阪神戦(甲子園)で放った球団5000号ホームランは、槙原が現役時代に唯一打ったホームランである。 |
| 槙原の持ち球であるスライダーは、チームメートであった篠塚和典(二塁手)から教わったとのこと(講演会にて本人談)。 |
| 本人曰く、1985年に股関節を骨折して2ヶ月ほど戦線を離脱。 |
| 戦列復帰後に何か新しいことに取り組もうと模索していた際、全体練習にて遊び感覚でピッチング練習をしていた篠塚が、キレのよいスライダーを投げているのを発見。 |
| すぐに投げ方を教わって試してみたところ、これが見事に成功。 |
| 以後、直球とフォークに加わる自身の新しい武器になったという。 |
| 1988年に結婚した際には、後の総理大臣・森喜朗(5年後に球団の後輩になる松井秀喜の後援会長)が臨席して祝辞を述べたが、その内容は、「最近巨人の結婚式というと子連ればっかりであったが、槙原君はまっとうな結婚式で本当に良かった」で始まった。 |
| というのも、その数日前に水野雄仁が子連れ結婚式をしたのが記憶に新しかったからである(ただし水野はのちにその夫人とは離婚している)。 |
| 1988年の日米野球では初戦に先発。 |
| メジャーチームの先発は、メジャー史に残る名投手、オーレル・ハーシュハイザーだったが、槙原はそのハーシュハイザーと互角以上のピッチングを披露。 |
| 堂々たる投手戦を展開し、次々と三振にきってとったその快腕ぶりは、「あの17番はメジャーで通用する」と並み居るメジャーリーガーたちを驚嘆せしめた |
| 1990年5月24日のナゴヤ球場での対中日ドラゴンズ戦で槙原がバンス・ローに頭部付近投球を与えた際乱闘になり、その際中日星野仙一監督が水野に罵声を浴びせられたとの理由で憤慨し、水野は星野に大声で呼びつけられた後顔面を殴打された。 |
| 1993年シーズンオフにはFA宣言をしたものの、巨人に残留。 |
| この際の引き止めに、長嶋監督が17本のバラを持って自宅に訪れたのは有名な話だが、実際は20本だったらしい |
| 1990年の日本シリーズ第1戦に先発した際、西武のオレステス・デストラーデに3ランを浴び、これがシリーズの流れを決めたといわれている(西武サイドは槙原がカウントノースリーからは、ど真ん中ストレートしか投げないことを把握していた)。 |
| 当時の西武の監督の森祇晶は巨人と対戦する上で槙原を「最も嫌な投手」としていただけに大きな勝利だったようでこの年は西武の無傷の4連勝で日本一となった。 |
| しかし、1994年の日本シリーズで第1戦は大勝で取ったものの第2戦と優勝決定の第6戦で槙原に抑え込まれ、2勝4敗で西武が敗退する。 |
| また、森が西武の監督時に巨人との日本シリーズ(1987年・1990年・1994年)で完封負けを喫したのは槙原だけである。 |
| 日本シリーズでは、槙原は森西武に対して通算3勝1敗としており、その3勝も、うち2勝は完封、1勝は内野ゴロの間の1失点による完投と、槙原が一人で投げ抜いた勝利と内容が良い。 |
| 森にとって「最も嫌な投手」であることに変わりはなかった。 |
| 1994年5月18日の巨人-広島戦福岡ドームで前々日の門限破りで外出禁止1か月を言い渡されたため好投してこれを解こうと奮起し完全試合を達成した、ということをシーズンオフに大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際に話している |
| 1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン後再手術をする事となった(『週刊プレイボーイ』2009/06/15号)。 |
| バース・掛布・岡田の3連続被弾から、11年たった1996年6月19日には、音重鎮、山崎武司、大豊泰昭に、3連続被弾をまた浴びた。 |
| 本人が語った事によると一番記憶に残った試合は完全試合でも3連続被弾でもなく、1986年にマーク・ブロハードにサヨナラホームランを打たれた試合だという。 |