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つながりの強いひと
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杉原千畝
日本の官僚、外交官。第二次世界大戦の際、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてき... |
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早坂隆
早坂隆(はやさかたかし、1973年9月2日-)は日本のルポライター、ノンフィクション作家である。日本文藝家協会会員。 |
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安江仙弘
日本陸軍の軍人、最終階級は陸軍大佐。イスラエル建国功労者。 |
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アッツ
アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級航空母艦の48番艦。艦名はアリューシャン列島のアッツ島に因んで命名された。 |
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松岡洋右
松岡洋右(まつおかようすけ、3月4日-6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦... |
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東條英機
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
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犬塚惟重
日本海軍の軍人、ユダヤ問題研究家。最終階級は海軍大佐。 |
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上杉千年
日本の歴史学者。新しい歴史教科書をつくる会理事を務める。元高等学校教諭。保守系教員の職能団体「日本教師会」代表を務めていた。岐阜県生まれ。1950年、... |
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田母神俊雄
日本の軍事評論家、頑張れ日本!全国行動委員会代表、予備役ブルーリボンの会顧問。元航空自衛官・航空幕僚長。 |
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ゴールデンブック
ゴールデンブックの検索結果 ゴールデンパス周辺旅行 - 旅行のクチコミサイト フォートラベル ガイドブックにない、生きた旅行情報が満載! - 旅行のクチコ... |
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相沢三郎
日本の陸軍軍人。歩兵将校として階級は陸軍中佐に昇るが、相沢事件と呼ばれる永田鉄山軍務局長斬殺事件を起こす。北一輝の思想的影響を受けていたものとみら... |
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塩野七生
日本の小説家である。歴史小説『ローマ人の物語』の著者として知られる。名前の「七生」は、7月7日生まれであることに由来。 |
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永田鉄山
日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任し、陸軍省軍務局長。階級は陸軍中将。没後追贈で、正四位勲一等に叙され瑞宝... |
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石原莞爾
昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織... |
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板垣征四郎
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を... |
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橋本欣五郎
昭和時代の日本の陸軍軍人、政治家(衆議院議員1期)。右翼活動家。たびたびクーデターを試みたが失敗し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で訴追された。通称「... |
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オスカー・シンドラー
メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に収容されていたユダヤ人の... |
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杉原幸子
杉原幸子夫人がホムバーガー、モリ、明石氏の三人からクリスタル製の盾と目録を受け取り、「主人のことを忘れずに称えてもらうのは私の生き甲斐です」と喜び... |
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八田與一
日本の水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。 |
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プロフィール
- 樋口季一郎とは
- 経歴
- オトポール事件
- 対ソ戦闘
- 人物
- 後年の評価
- 年譜
- 関連項目
- 著書
- 参考文献
樋口季一郎(ひぐちきいちろう、1888年8月20日-1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3 師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9 師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 イスラエル建国功労者。兵庫県淡路島生まれ。
経歴
| 現在の兵庫県南あわじ市阿万上町で、父奥濱久八、母まつの5人兄弟(諸説があり9人とも言われている)の長男として生まれた。 |
| 11歳の時両親が離婚し、母まつの阿萬家に引き取られる。 |
| 18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になった。 |
| 大阪陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(21期)に進み優秀な成績で卒業、陸軍大学校(30期)を経て、高級軍人となってからは主に満州、ロシア方面部署を転々とする。 |
オトポール事件
| 1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。 |
| この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。 |
| 日独防共協定を推進したヨアヒム・フォン・リッベントロップ駐英大使は、このことを知ると、ヘルベルト・フォン・ディルクセン駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長・東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかった為、事無きを得た。 |
| 本来親独派である東條が樋口を不問にした背景には、ユダヤ人人脈を通じた対米関係の修復の模索との見方もある。 |
| 1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人若干名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅まで避難していた。 |
| しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。 |
| 樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った(オトポール事件)。 |
| 樋口は「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記しているが、芙蓉書房は彼の手記にある数字を勝手に2万人に改竄しており、原稿の「数千人」にも具体的な根拠がない。 |
| 樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、かつてポーランドやドイツに駐在武官として赴任していた頃寄宿しようと一般家庭に尋ねて行くと、東洋人であると言う理由でことごとく拒否され続けていた。 |
| しかしあるユダヤ人の一家庭だけが樋口を温かく迎えてくれたという、彼自身の体験が根底にあったためである。 |
対ソ戦闘
| 1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。 |
| アッツ島玉砕、キスカ島撤退、敗戦後の占守島、樺太における戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた。 |
| そのためスターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。 |
| 世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。 |
| 世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した。 |
| 戦後イスラエル建国功労者として安江とともに「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになった。 |
| また、樋口が終戦前後まで指揮をとっていた部隊内では、捕虜の虐待や戦争犯罪とみなされる事件はただの一件も起きていない。 |
人物
| 橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。 |
| また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。 |
| さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は相沢三郎の直接の上司であった。 |
| 血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。 |
| 石原莞爾や阿南惟幾らと友人であった。 |
| 安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリアに赴任した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾く中、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。 |
| 彼は、酒井勝軍の日ユ同祖論を一笑に付し、極めて反ユダヤ的な偽書『シオン賢者の議定書』を眉唾物とし、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。 |
| 樋口は当時の軍人たちがはまった陰謀論から離れ極めて冷静な判断をしている。 |
後年の評価
| ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、表立って喧伝されたことがない。 |
| 南満州鉄道の総裁だった松岡洋右も難民救済に一役買っている。 |
| したがって、樋口の功績に言及することは、「あれは河豚計画の一環だからこそ行われた」とする主張と、是々非々で評価すべきであるとする主張とに真っ二つに分れ評価が定まらないでいる。 |
| 現代の日本および周辺諸国では前者の意見が未だ見られるため、再評価にはまだ至っていないようである。 |
| 2010年6月、ルポライターの早坂隆が、樋口の評伝『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)を刊行。 |
| 今まで謎の部分が多かった樋口について、膨大な資料と証言から、その生涯の細部にまでわたる検証を行った。 |
| なお、2010年現在明治学院大学教授・音楽学者・指揮者の樋口隆一は直系の孫に当る。 |
年譜
| 明治35年(1902年)9月-大阪陸軍地方幼年学校入学。 |
| 明治42年(1909年)5月-陸軍士官学校卒業(21期)。 |
| 12月-少尉に昇進。 |
| 歩兵第1連隊附。 |
| 大正2年(1913年)2月-中尉に昇進。 |
| 大正7年(1918年)11月-陸軍大学校卒業(30期)。 |
| 大正8年(1919年)7月-大尉に昇進、参謀本部附勤務。 |
| 12月-ウラジオストク派遣軍司令部附。 |
| 大正11年(1922年)4月-参謀本部員。 |
| 大正12年(1923年)12月-朝鮮軍参謀。 |
| 大正13年(1924年)8月-少佐に昇進。 |
| 大正14年(1925年)5月-ポーランド公使館附武官。 |
| 昭和3年(1928年)2月-歩兵第45連隊附。 |
| 8月-中佐に昇進。 |
| 昭和4年(1929年)8月-技術本部附(陸軍省新聞班員)。 |
| 昭和5年(1930年)8月1日-東京警備参謀。 |
| 昭和8年(1933年)3月18日-大佐に昇進、東京警備司令部附。 |
| 8月1日-歩兵第41連隊長。 |
| 昭和10年(1935年)8月1日-第3師団参謀長。 |
| 昭和12年(1937年)3月1日-参謀本部附(ベルリン出張)。 |
| 8月2日-少将に昇進、ハルピン特務機関長。 |
| 昭和13年(1938年)7月15日-参謀本部第2部長。 |
| 昭和14年(1939年)10月2日-中将に昇進。 |
| 12月1日-第9師団長。 |
| 昭和17年(1942年)8月1日-北部軍司令官。 |
| 昭和19年(1944年)3月10日-第5方面軍司令官。 |
| 昭和20年(1945年)2月1日-兼北部軍管区司令官。 |
| 12月1日-予備役編入。 |
関連項目
| 占守島の戦い。 |
| 第二次世界大戦に関連する人物の一覧。 |
| 黄金の碑(ゴールデン・ブック)。 |
著書
| 『陸軍中将樋口季一郎回想録』芙蓉書房、1999年(1971年版『アッツキスカ軍司令官の回想録』の改題再刊)ISBN4829502266。 |
参考文献
| 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』文春新書、2010年 ISBN978-4-16-660758-7。 |
| 高橋正衛『昭和の軍閥』講談社学術文庫。 |
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2010年
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ルポライターの早坂隆が、樋口の評伝『指揮官... |
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