| 父親が王貞治のファンだったため、右利きながら小さい頃に左打ちに転向させられている週刊ベースボール、2000年11月6日号、P.124。 |
| 香長中学では三番・三塁手を務めて県大会の決勝まで進んだが、中西清起を擁する小筑紫中学に敗れた。 |
| また、同じく3年生の時には南国市の相撲大会で優勝しているNumber、1989年3月20日号、P.39。 |
| 熱心な勧誘を受けて、創立後間もない明徳高校に進学。 |
| 同期には河野博文がいた。 |
| 三塁手のレギュラーとして迎えた1年夏は初戦で敗退。 |
| しかし2年の夏は五番・左翼手として5割近い打率でチームの高知県大会決勝進出に貢献し、惜しくも延長戦で敗れている。 |
| 最後の夏となったは再び決勝に進出するも、中西がエースを務める高知商に2対3で敗れ、全国大会出場はならなかった。 |
| 高校卒業後は、監督の勧めもあって駒澤大学に河野とともに進む。 |
| 東都大学リーグ通算86試合出場、314打数86安打、打率.274、6本塁打、40打点。 |
| 1984年秋季のリーグでは優勝に貢献し最高殊勲選手に選ばれた。 |
| 1984年のドラフト会議でロッテから4位指名を受けて入団した。 |
| ルーキーイヤーののキャンプは二軍スタートとなったが、一軍外野手のレギュラー候補だった高橋忠一がオープン戦で肩を脱臼し、紅白戦での二塁打を覚えていた落合博満が横田を推薦して一軍に昇格した。 |
| 開幕戦の対日本ハム戦ではスタメン起用され、一時は控えとなるもオールスターゲーム前には打率が3割を超えてスタメンに定着している。 |
| 同年は打率.300ちょうどで最終戦の第3打席を迎え、数字は気にしなくて良いという稲尾和久監督の方針でそのまま松沼博久と対戦。 |
| 緊張して臨んだ打席だったが、死球を受けて新人ながらシーズン3割を達成し、ベストナインに選ばれている。 |
| なお新人王は、同じく外野手のベストナインに選ばれ本塁打と打点で上回った阪急の熊野輝光が獲得し、投票では次点に終わった。 |
| 2年目のはオープン戦で不調に陥るが、開幕後は一転して調子が上向きになる週刊ベースボール、2000年11月6日号、P.125。 |
| 最終的に前年を上回る打率.304で長嶋茂雄以来の史上2人目となる新人から2年連続での3割を記録し、ベストナインにも選ばれた。 |
| 落合が中日に移籍したは背番号が2となり、有藤道世監督の方針で三番を任されるようになった。 |
| プレッシャーもあって打率が2割4分台まで低下したが、一番・西村徳文の後の二番に戻ると打撃が復調し、シーズン通算では打率.284と前年の2倍以上の26盗塁を残している。 |
| その後もレギュラーとして活躍し、は10月15日の対阪急戦で右肩に全治3週間の怪我を負った読売新聞、1988年10月18日付朝刊、P.19が、オフには元ミス鹿児島の女性と結婚している。 |
| 6年目の7月14日の対オリックス戦でドン・シュルジーから死球を受け、右ヒジを骨折した読売新聞、1990年7月17日付朝刊、P.19。 |
| 同年秋に戦列に復帰したものの、翌はチームの若返りもあって出場機会が減少。 |
| 同年オフに宇野勝・長嶋清幸との交換で今野隆裕とともに中日にトレードされると、チームになじめず不振に陥り、は一軍に上がれないまま自由契約となる。 |
| は西武に移籍するも復調せず、同年で現役を引退した。 |
| 引退後は社会勉強のため宅配便のアルバイトを経て、知人の焼肉屋に勤務。 |
| 料理を勉強して妻の出身地である鹿児島県でだご汁などを出す飲食店を開業したが、2002年ごろに閉業。 |
| また、冬季はマスターズリーグに参加し、福岡ドンタクズに所属した。 |